ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Teju Cole の “Open City” (2)

 正直言って、いまだに採点を迷っている。昨日はとりあえず、☆☆☆★★★としたけれど、☆☆☆☆でもいいのではないか。
 ぼくは本書の主人公と同様、本も映画も大好きだが、両者の共通点は、どちらもストーリーがあること。これがひとつの柱であり、映画の場合はさらに映像効果や演出、演技その他、活字ではなかなか表現しにくい要素がふくまれる。
 一方、本が映画と異なる点は何かというと、ひとつには、深い思索や複雑な思考でも文字なら工夫次第で表現が可能なことだ。また、読者もページをめくる手をしばし止め、書かれている内容をもとにあれこれ考えることができる。映画 movie は読んで字のごとく動くものであり、picture つまり観るもの、というのが基本。これに対し、本は読みながら考えるもの、というのがストーリーと並んで大きな柱だとぼくは思っている。
 それならば、「深い思索や複雑な思考」という活字ならではの「大きな柱」に支えられた本書は、この種の小説の魅力を最大限に発揮したものとして、もっともっと高く評価してもいいだろう。「これほど内省的で、かつ知的な『魂の彷徨』を描いた小説は、そうめったにあるものではない」からだ。
 たまたま昨年の暮れ、ぼくは Siri Hustvedt の "The Summer without Men" を読んだとき、Joseph O'Neill の "Netherland" や Joanna Kavenna の "Inglorious"、Michael Thomas の "Man Gone Down"、Anne Enright の "The Gathering" といった一連の作品を思い出し、現代英米文学のおもなテーマのひとつして、「家族との何らかの別れ」に発する「絶望および絶望からの脱出」が挙げられるのではないか、という一文を草した。ただの思いつきにすぎないが、それらの作品群とこの "Open City" は、主人公の「内なる彷徨」を描いている点では一致している。が、決定的に異なる点もある。あちらが「絶望および絶望からの脱出」という個人の問題にほとんど終始しているのに対し、ここでは文明論や「人間の死および人生一般」にまで思索が及んでいる。主人公が「自己の内面を客観的に検証すればするほど、その客観性ゆえに自分を超えつつむ大きな問題にぶつかり、そこからまた個人的な問題へと立ち返る」といった文学的な深みが明らかに認められるのだ。この点を大いに評価すべきではないのか。
 …ううむ、困った。この続きはまた明日にでも。