ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Arthur Phillips の “The Tragedy of Arthur” (4)

 今まで述べた理由で、本書を高く評価するむきがあっても決して不思議ではない。事実、ニューヨーク・タイムズ紙の Notable Book や、ニューヨーカー誌その他の年間ベスト作品に選ばれるなどメディア露出度は抜群に高いし、米アマゾンでも今現在、レビュー数68で星4つ。ぼく自身ももちろん、何度も言うように、これは「大変な労作」だと思う。
 だが、本書を読んでいて「心から感動を覚えることは少なかった」。なぜか。ここで披露される「巧みの業」に目を瞠りながらも、いったい何を言いたいがための「巧みの業」なのか、という疑問をどうしてもぬぐえなかったからである。文体ひとつとっても、たしかに複雑な感情を表現するためには、このように入り組んだものになることは理解できる。が、辛抱づよく読みつづけた末にわかったのは、これが「要するにホームドラマ」だということだ。個々のエピソードには愉快なものもあれば、「ほろっとさせられるくだりもある」のだが、「要するにホームドラマ」。先週読んだトルストイの英訳短編集とは雲泥の差で、人生について深く考えさせられるようなことはほとんどない。つまり、「得られるものは少ない」。
 いやいや、テーマこそ家族愛という平凡なものであっても、その表現手段がすぐれているなら、それでいいではないか、という反論も当然成り立つだろう。なにしろこれは、「シェイクスピア劇のパスティーシュを導入するための自伝小説」なのだから、その「非凡な着想」だけでも十分評価に値するはずだ。
 ぼくもそう思う。おそらくゴマンとあるであろうシェイクスピアパスティーシュの中にあって、「柳の下の何十匹目かのドジョウ」とならないための「非凡な着想」は大いに買える。にもかかわらず、「人生について深く考えさせられるようなことはほとんどない」という点にどうしても引っかかってしまうのである。これ、トルストイを読んだ直後だからかもしれませんな。
 なんだかミもフタもない話になってきた。結論を述べよう。これは「技巧的な、あまりに技巧的な作品である」。芸術至上主義の立場からすれば秀作であり、ぼくと同じような疑問をいだいた人は、だから何なんだ、と言いたくなるのではないだろうか。主人公の言葉をふたたび引用すると、'It all depends on how you like the book.' (p.256) 本書はまさしく 'A problem play, I suppose we could call it.' (p.255) というわけで、「それ(非凡な着想)を高く評価すべきかどうか。読者を選ぶ問題作である」とレビューの最後に書き加えました。それにしてもしかし、Arthur Phillips は頭のいい作家ですな。