ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

2012年上半期ぼくのベスト5・落ち穂拾い

 読みはじめた本はあるのだが、今日は血圧のせいか頭が重く、少しもはかどらなかった。そこで昨日の続きを書くことにしよう。
 上半期のベスト5を選んでみたら、なんと3冊も英訳本になってしまい、しかもベストワンはトルストイ。それが気になり、代わりに最近の英米のものから選ぶとしたら何だろうとしばし考え、以下の3冊に落ちついた。が、これにしても去年の作品ばかりで、Hilary Mantel や John Irving の新作が入っていないし、オレンジ賞受賞作の "The Song of Achilles" も落選。そんな純文学作品をさしおいて、文芸エンタメ路線の "The Language of Flowers" を選ぶとは何ごとか! と罵声を浴びそうだが、Mantel も Irving も今回はさほど感動しなかった。"The Language ...." は、ぼくのおセンチ趣味です。

Open City: A Novel

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[☆☆☆★★★] 「わたしは自分の心をさぐった」――第二部冒頭のことばだが、これは全篇に当てはまる。孤独な若い精神科医ジュリアスの心の旅、それもすこぶる知的な内面検証の旅が本書なのだ。彼はニューヨーク市内をあてもなく歩きまわり、そこで目にした情景や、耳にした音楽、出会った人びととの会話などに触発され、じつにさまざまな問題に思いをはせる。先住民の時代にまでさかのぼるアメリカ史の流れ、アメリカにおける黒人の地位(ジュリアスはナイジェリア出身)、パレスチナ問題、そして9.11事件。彼の思索は倫理的、精神病理学的な観点にも立脚し、さながら文明批評の感さえある。だが、どれもこれも結局、彼にとっては「心の旅」なのだ。祖国ナイジェリアで過ごした少年時代の思い出や、別れたばかりの恋人への思いといった個人的体験にはじまり、それがけっして感傷にとどまらず、自身の存在基盤をさぐり、たしかめていくうちに文明論へと発展。あるいは、マーラー交響曲の分析に示されるように、人間の死および人生一般へと波及。要するに、自己の内面を客観的に検証すればするほど、その客観性ゆえに自分を超えつつむ大きな問題にぶつかり、そこからまた個人的な問題へと立ちかえる。書中の言葉をもじっていえば、「内なる現実」と「外なる現実」の相関関係がここには認められる。これほど内省的かつ知的な「魂の彷徨」を描いた小説は、現代文学ではもはや希有の存在かもしれない。[☆☆☆★★★] 泣けた。途中からおおよその展開と結末が読めるのに、いざその山場になると、やはり泣けてきた。花の命はみじかくて……と日本ではいうが、これは折にふれて花を引きあいに出しながら、数々の苦難を乗りこえ、たくましく生きる愛を描いた感動の物語である。舞台はサンフランシスコ。孤児院を出たばかりの若い娘ヴィクトリアが花言葉など、持ち前の花の知識を買われて花屋で働くうち花卸商の青年と恋仲に。ところが妊娠がわかるとなぜか離別。一方、これと平行して、短気で反抗的だった幼い少女時代の話も進む。いじめや虐待にあいながら多くの養父母のもとを転々としたあと、ようやく愛情豊かな女性エリザベスに出会えたと思ったら……。なぜヴィクトリアは青年と別れたのか。なぜエリザベスに引きとられなかったのか。ふたつの謎は当然結びつき、それが明かされとき、最後はおそらく……とほぼ読める。だが、ヴィクトリア・ファンの花屋の客が増えたり、頑固な少女がエリザベスにしだいに心をひらいたり、序盤ですでにグッとくる場面があり、やがてフィナーレで高らかに謳われる親子・家族・夫婦の愛。通勤快読本だが、涙腺の弱いひとは電車内に持ち込まないほうがいいでしょう。[☆☆☆★★★] 終始一貫、芸術至上主義を題材にしたファースだが、子どもが親から真の意味で独立する通過儀礼を描いた青春小説でもある。最初は笑いの連続だ。ファング夫妻が未婚のカップルを装って派手なプロポーズ劇など、公共の場でつぎつぎにパフォーマンスを演じ、それを芸術と自画自賛。この「ハプニング芸術」に渋々つきあわされるのが夫妻の子どもたちで、成長した彼らの物語も平行して進む。姉のアニーは半裸姿をネットでさらされたり、弟バスターは「ジャガイモ銃」で撃たれて重傷を負ったりと、こちらも爆笑もののドタバタ劇。ところが中盤、夫妻が謎の失踪を遂げたあと、コメディの要素ものこしつつ、しだいにシリアスな様相を呈しはじめる。両親は何者かに殺害されたのか、それともやはり、またまた十八番のパフォーマンスなのか、子どもたちの心配はつのるばかり。だがこれぞまさしく両親の思うツボ、人生の不安と混沌を彼らに体験させようという意図があるのかも、と解したくなるあたり、なにやらオフビートな不条理劇といえそうだ。しかし一方、それは深読みと思えるフシもあり、結末は予測不能。笑えるという意味でも、フシギという意味でも、とにかくおかしなケッサクである。