ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Italo Calvino の “If on a Winter's Night a Traveler” (4)

 実際、「本書の大前提には diversity がある」。どれか一面を採りあげて全体の象徴と見なすことはできない。これが本質だと思ったことが、つぎにはあっさり否定される。たとえば「読者編」には、'.... literature is more worthwhile the more it consists of elaborate devices, a complex of cogs, tricks, traps.' (p.190) といった自作批評らしき一節も出てくるが、こういう文学論がフィクションのかたちで提示される以上、これまた Calvino の仕掛けたワナのひとつかもしれないのだ。
 そのことを重々承知のうえで、本書が「小説を読むことについての小説」であることを物語る箇所を引用しておこう。'For this woman .... reading means stripping herself of every purpose, every foregone conclusion, to be ready to catch a voice that makes itself heard when you least expect it, a voice that comes from an unknown source, from somewhere beyond the book, beyond the author, beyond the conventions of writing: from the unsaid, from what the world has not yet said of itself and does not yet have the words to say.' (p.239) まさに「読むことのはじまりにむかって」進む meditation である。
 だが、きのうも書いたように、こうした meditation は本来、「生きることのはじまりにむかって」進むべきものであり、「生きるとはどういうことか、生きることにはどんな意味があるのか」という問題と切り離して、ただ読書の問題についてだけ考えることはとうてい不可能だとぼくは思う。
 そんな観点から上のくだりを読み返してみると、たしかに 'life consists of elaborate devices, a complex of cogs, tricks, traps.' ではあるが、そういう人生の中から 'to be ready to catch a voice that makes itself heard when you least expect it, a voice that comes from an unknown source ....' という姿勢が「生きること」なのだ、と述べられているようにも思えてくる。
 だが、Calvino が「そこまで意識して本書を仕上げたかどうかは、いまひとつ判然としない。それをどう読むかも読者次第、ということなのかもしれない。が、作者の意図はさておき、このメタフィクションを人生のメタファーとして解釈することはいちおう可能だと思う」。……というのがぼくの解釈である。おや、そう読みましたか、そんな読者もいるだろうと思ってましたよ、という Calvino の声が聞こえてきそうだ。
 ともあれ、ぼくの好みとしては、もっと明確な「人生のメタファー」のほうがいい。それが本書にたいする最大の不満です。そんな不満を「万華鏡のように変化する」小説にぶつけても、まったく意味がないのですけどね。