ロンドン時間で10日、今年のブッカー賞ショートリストが発表された。今年の夏は仕事その他、諸般の事情でろくに本が読めず、下馬評もたしかめなかったので、順当な結果かどうかはわからない。たまたま読んだロングリスト7作の中では、残念ながら落選してしまったものの、Tash Aw の "Five Star Billionaire" がいちばんかな、と思っていた。
以下、既読のものについてはレビューを再録しておきます。
[☆☆☆★★] ジンバブエからアメリカに移住した少女ダーリンの体験を綴った青春小説。実質的に短編集の味わいで、前半はダーリンをはじめ、貧しい村の少年少女たちが繰りひろげる狂騒劇が楽しい。教会での悪魔払いの儀式や、少女の中絶騒ぎなど抱腹絶倒もの。一方、死の床にあるダーリンの父親をワルガキたちが見舞うシーンには、しんみりさせられる。かと思えば、黒人たちによる白人の屋敷の襲撃事件や、子どもたちが政治活動家の惨殺を再現するくだりでは緊張が走り、子どもの無邪気さと残酷さが浮き彫りにされる。後半の話題は、ダーリンがアメリカでうけたカルチャーショックや、二度と帰れなくなった祖国への複雑な思い、さらには、本名を隠し、新しい名前で不法就労に従事する移民同士のふれあい、彼らの塗炭の苦しみなど。いずれも想定内のテーマだが、テンポよく畳みかけるような文体がすこぶる効果的で思わず引きこまれる。両親や友人だけでなく、自国の文化そのものと決別し、移住先ではわが子との断絶もしいられる第一世代の移民たち。もとより完全に絆が切れるわけではなく、彼らの引き裂かれた心を、青春小説のスタイルでみごとにとらえた作品である。(8月7日)[☆☆☆★★] 舞台はイギリスの片田舎。まだ荘園領主が村を治めていた時代、不心得者が領主の館で失火騒ぎを起こし、それをきっかけに悲劇がはじまる。深読みかもしれないが、これは現代社会に警鐘を鳴らした寓話小説と解することもできよう。どんなに平和で繁栄した国でも、不都合な真実を隠蔽するうちに混乱が生じ、最悪の場合には社会全体が崩壊してしまう。その過程にはさまざまな負の連鎖がある。真実の隠蔽はもちろん、縄張り意識と差別、大衆への迎合、集団ヒステリー、魔女狩り、ユートピアの欺瞞、権力者の恣意と優柔不断、権力の空白がもたらす無秩序、正義感に駆られた人間のふるう暴力。当初はのどかな田園風景にふさわしいゆるやかな展開で、しかも上のもろもろの要素が複雑にからまり、なかなか話の方向が見えない。しかしやがて事件はしだいにエスカレート。気づいたときには主人公ともども、地域社会の崩壊を目のあたりにしている。それはいわば複合現象であり、どれかひとつが決定的な要因とはいいがたい。そのぶん焦点がぼやけ、インパクトに欠ける憾みもあるが、こうした負の連鎖こそ、じつはすこぶる現代的な崩壊過程ではないだろうか。[☆☆☆★★] 雨が降れば水につかるカルカッタ市内の低地。少年時代にそこで遊んだ兄弟と、その家族の1960年代から現代まで、ほぼ半世紀にわたるファミリー・サーガである。時に回想も混じるが、もっぱらクロニクル風の展開で、即物的といってもいいほど淡々と客観描写がつづく。テーマは家族の絆だ。兄弟や夫婦、親子などの愛と憎しみ、確執と和解など、お涙頂戴式になりがちな場面でも、行間から深い感情がにじみ出てくるようで、えぐりが効いている。ハイライトのひとつは、若くしてアメリカに渡った兄とその妻、ふたりの娘の静かなバトル。それまでぐっと抑えていた感情が堰を切ってほとばしる妻と娘の対決は息をのむばかりだ。直後、ハートウォーミングな孫娘の話をさりげなく持ちだす、といった構成もみごと。そんなファミリー・サーガのいわば定点に位置するのが弟で、彼はカルカッタで過激派の組織に参加、テロ活動をおこなう。インド現代史の潮流がかいま見え、そこにインド独特の家族のしきたりもからんで物語の鍵となる。しかし上記のテーマをはじめ定石どおりで、旧作と較べると物足りない。(9月29日)[☆☆☆★★★] 終盤、夢なのか現実なのかマジックリアリズムの世界のような事件が発生。やがてその謎を量子力学の立場から多元宇宙の一例として解明しようとする試みがなされる。いささか理に落ちた結末で尻すぼみだが、そこまでの展開は非常に読みごたえがある。アメリカ育ちの日本人の十代の娘ナオが、秋葉原のメイド喫茶で英語で日記を書きつづける。その日記が数年後、バンクーバー近くの離れ小島の海岸にプラスチック袋入りで漂着。それを拾った日系人の女性ルースが大いに関心を示し、同時に彼女の人生も綴られるという二重構造だ。太平洋戦争末期に特攻隊員として戦死したナオの大伯父の手紙や日記も挿入され、時には三重ともいえる複雑な叙述スタイルがじつに巧妙。太平洋戦争のほか、9.11テロ事件、イラク戦争、さらには東日本大震災と福島原発事故という歴史的大事件を、三つの物語のなかで齟齬なく結びつける力わざにも舌を巻く。アキバの猥雑な風俗と、カナダの静かな自然と人情のコントラストも鮮やかだ。が、なにより胸を打つのはやはりナオの物語だろう。日本に帰国後、父親がなんどか自殺未遂。東京の中学校でナオが受けた想像を絶する、しかし現実にありそうな恐るべきいじめと暴行。その試練を彼女はどう乗りこえていくのか。彼女に感化を与えるのが曾祖母の尼僧ジコーで、このジコーのことばと、道元の『正法眼蔵』からの引用が本書のタイトル、『あるときの物語』へとつながっている。人間にとって時間とは、存在とは、生とは、死とはなにか。そうした問題について、本書はけっして観念論ではなく、個々の具体的な瞬間から考え直すきっかけとなる作品である。ひとことでいえば人間の運命の問題だが、戦争もテロも、異なる正義や価値観の衝突がもたらす運命の悲劇であり、まさしく多元宇宙の所産である。ところが、本書における戦争のとらえかたには〈正義の多元性〉という視点がいささか欠けている。ナオやルースなど中心人物が陰翳豊かに造形されているのにたいし、肝腎の人間観・歴史観のほうはやや一面的で図式的。これでは道元の教えも個人的な悟りの勧めにすぎないのではないか、という疑念さえわいてくる。(9月24日)[☆☆☆] 聖書における聖母マリアの記述は非常に少なく、その心情を綴ったものとなると皆無。本書はそんな歴史の空白を埋めようとする聖書の番外篇である。キリストの死後何年もたったあと、死期を悟ったマリアが生前のキリストと処刑前後のできごとを回想。子どもに愛情をそそぎ、その身を案じ、わが子を亡くして悲嘆にくれる母マリア。恐怖におののき、なによりおのが身の安全を考えるという人間的な弱ささえ露呈する。マリアも聖母である前に、ごくふつうの母親、ふつうの人間だったというわけだ。この解釈が妥当かどうかはさておき、キリストの処刑といえば世界史上最大の事件のひとつのはず。ところが本書からは、その衝撃がさっぱり伝わってこない。「聖書の番外篇」といっても、要するに小さなホームドラマと化している。マリアに母親としての苦悩があったことは想像に難くないが、神の子イエスから宗教的感化を受けることはまったくなかったのだろうか。もし受けたとすれば、それは彼女の苦悩にどんな変化を与えたのだろう。トビーンほどの大家なら、そのあたりの葛藤をじっくり描くこともできたろうに、本書のマリア像は繊細なタッチのわりに平板。そもそも中編小説では扱いきれぬテーマだったのではないか。(2012年12月11日)