ああ、しんどかった、というのが正直な感想だ。そろそろ物語が動きだしそうかな、と思ったら、またしてもコッテリした心理描写。さすがに胃にもたれることが多く、そのせいもあってしばらく遠ざかっていた。
現代英文学をリアルタイムでかじった目で見ると、こんなに濃厚濃密な作品はもうそれほど多くない気がする。いまはもっとスイスイ進むほうが主流なのではないか。
心理だけでなく、たとえば室内のようすも家具調度にいたるまでみっちり書き込まれている。いかにも伝統的な英文学らしい技法だが、本書が刊行されてから30年余り。こんなスタイルはいまや過去のものになりつつある、と言えるかもしれない。
それが夜寝る前にキッチンで catch up している日本文学となると、彼我の違いは歴然だ。今週のテキストは森沢明夫の『海を抱いたビー玉』だが、そちらはとても読みやすい。ほんとに「スイスイ進む」のでスイスイ読めてしまう。いいか悪いかは別として、"Look at Me" のほうがずっと密度が濃い。
そのわりに、それほど「みっちり書き込」まなくてもいい内容では、と思ったのが、my supposed physical innocence という文言に出くわしたときのこと(p.143)。ってことは、ヒロインの Frances にとって experience とは、これまた当然 physical なものに過ぎない。
彼女の心に「無垢と経験」という葛藤があることは事実だが、両者がどちらも physical なものだとしたら、それは単純すぎて明らかに「深いテーマではない」。
一方、前々回述べたように、「きれいは穢い、穢いはきれい」をぼく流に解釈すれば、「きれい」も「穢い」も mental なものだ。そちらのほうが「深いテーマ」だと思うのだが、それは独断と偏見でしょうか。
どうせ単純明快な対比なら、たとえば名画『駅馬車』のクレア・トレヴァーのほうがずっと共感を得やすい。卑しい酒場女でありながら、心は乙女のように純情そのもの。最近出たばかりの日本版ブルーレイで見て、大いに興味をそそられた。ははあ、こんなところにも、「innocence と experience の対立と融合」という問題が読み取れるのですな。
と、ここまで「タブラ・ラサ」を聴きながら書いていた。心の中はたぶん、ウツだと思う。
(写真は、宇和島市元結掛(もとゆいぎ)にある路地。ぼくは小学生のとき、ここを通って銭湯に行った。上が行き、下が帰り)