ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Loius-Ferdinand Céline の “Journey to the End of the Night”(3)

 前回、これからは「残務整理のようなものだ」と書いたテンプの仕事、いざ始まってみると目が回るような忙しさで、今週までテンテコ舞いだった。しかも、たしかに来月から出勤はしなくていいものの、メールのやりとりで在宅勤務を強いられることが判明。文明の発達にはまったく困ったものだ。メリットとしては、家にいる日が多いぶんだけ新型肺炎にかかる確率が減りそうなことくらいか。
 というわけで、ボチボチ読んでいた去年のギラー賞受賞作、Ian Williams の "Reproduction"(2019)は完全にストップ。きょうやっと再着手したところだ。わるい出来ではないけれど、さりとてクイクイ読めるほどでもない。前回から話は15年後に飛び、カリブ系の若い娘 Felicia はシングルマザーとなり、バツイチの中年男 Oliver の家に間借りしている。Oliver は Felicia に、彼女の息子は Oliver の娘にそれぞれ関心を寄せるが、どちらも片思い。その空回りぐあいが、まずまず面白い。
 さて、表題作の落ち穂拾いを締めくくっておこう。戦争の狂気と不条理が描かれた序盤から判断するかぎり、本書は反戦小説の先駆的な作品のひとつと言えるかもしれない、というのが前回の趣旨だった。それでは、Céline はほんとうに反戦作家だったのだろうか。
 たとえば、中盤以降には戦争についてこんな文言がある。The fact is that when you're at war you say peace will be better, you bite info that hope as if it were a chocolate bar, but it's only shit after all.(p.201) When I think now of all the lunatics I knew at Baryton's [his asylum], I can't help suspecting that the only true manifestations of our innermost being are war and insanity, those two absolute nightmares.(p.359)
 以上は主人公 Bardamu の言葉だが、精神科医の Baryton もこう述べている。I've known a good many sufferers from conviction mania ... Of many different types ... And in the last analysis, those who talk about justice seem to be the maddest of the lot! ... I took a certain interest in justice fanatics ... Human beings show a strange aptitude for transmitting this mania ...(p.362)
 むろん、こうしたくだりに Céline の思想がそっくりそのまま反映されているとはかぎらない。が少なくとも、平和は「クソにすぎない」とか、戦争が人間存在の奥深くに根ざしているとか、正義は一種の伝染病であるといった発想は、反戦集会で「……に言いたい、お前は人間じゃない。たたっ斬ってやる」と叫んでいるようなステロタイプの平和主義者にはまったく無縁のものだろう。
 本書では「愚劣で醜悪な人間および人間社会の不条理と狂気が浮き彫りにされる。あらゆる正義や理想、体制、権威、常識が否定され、嘲笑される」と、ぼくはレビューで陳腐な要約を試みたけれど、Céline は戦争の大義をはじめ、およそ美しいものの裏にある胡散臭さを動物的な嗅覚で嗅ぎとっていたのではないか、という気がする。
 文学史をさかのぼれば、正義から戦争や革命、テロの狂気が生まれる過程については、Dostoevsky が "Demons"(1871-72 ☆☆☆☆★★)ですこぶる論理的に解明している。理想主義の栄光と悲惨を劇的に表現した作品としては、Melville の "Moby-Dick"(1851 ☆☆☆☆★★)がある。「人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう」と述べたのはパスカル(1623-62)である。(この引用、いったい何度目かな)。
 Céline を読んだのは今回が初めてで、その読書歴をはじめ、彼が実際どんな作家だったのかは、ほとんどまったく知らない。ただ、上のような古典と較べながら本書の「猛烈な毒舌、罵詈讒謗の嵐」から察するに、「およそ美しいものの裏にある胡散臭さを動物的な嗅覚で嗅ぎとっていたのではないか」。そのあたり、もしぼくが若くてフランス語が読めたなら、じっくり研究してみたいところだ。
 ともあれ、いつだったかも書いたように、セリーヌという作家の存在を知ったのは、学生時代に買った故・生田耕作の評論集『るさんちまん』による。恥ずかしながら、いちばん利用したのは巻末にある「私の選んだ『フランス小説ベスト……』」で、セリーヌ論をはじめ、当時も本文はろくに読まなかったと記憶する。だからこれまた推測にすぎないが、ぼくのトンチンカンな感想より、はるかに専門的な分析が行われていることだけは間違いあるまい。同書はいまでも古本なら入手できるようだ。

(『るさんちまん』の表紙はアップできませんでした) 

黒い文学館 (中公文庫)

黒い文学館 (中公文庫)