ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Red and the Black" 雑感(19)

 本書について分析らしきものを始めたとき、まさかこれほど長くかかるとは思わなかった。それだけ内容豊かな小説だということでしょう。世界十大小説の一つという看板に偽りはありません。
 さて、Julien Sorel は「公人なのか、それとも私人なのか」。これは簡単な問題だ。生まれ故郷の田舎町で Renal 夫人と関係したときは、(住民たちに注目される場面もあるものの)明らかに私人である。それがパリに出て La Mole 侯爵の秘書となり、最下層の身分ながら社交界の末席に加わり、Mathilde と恋に落ちてからは、次第に公人的性格を帯びるようになる。
 むろん彼は王侯貴族ではない。が、平民でも聖職者か軍人のいずれかになれば貴族と肩を並べられるかもしれない〈赤と黒の時代〉にあって、彼は一瞬、その機会をつかみかける。それが一転、奈落の底へと落ちるわけだが、その破滅は、公の裁判を経て世間の注目を集めることにより公的な側面を持つものと言ってよい。George Steiner の言葉を借りれば、'Behind the tragic hero stands the chorus, the crowd, or the observant courtier.' というほどではないにしても、そこには彼の運命に関心を寄せる大衆が存在している。その小説世界における大衆は、Stendhal の小説を手にした一般読者と重なっているのではないか。Stendhal 自身、そういう計算のもとに本書を書いたのでは、と思われるフシがある。
 とすれば、以上の点においても、「Julien は正真正銘の tragic hero ではないものの、死の道を歩むことによって tragic hero に最も近づいている」。それは結局、社会的にはアンシャン・レジーム、旧体制と新興勢力の激突、文学的には古典劇と近代小説の衝突を物語るものであり、それゆえ「Julien Sorel は古典と近代の接点に立つ tragic hero」のような気がするのだ。
 次に、Julienの死は「public tragedy なのか、それとも private tragedy なのか」。Steiner の言葉を再び借りながら説明すると、Julien の心理的な葛藤、'sufferings' は明らかに 'intimate' なものである。Renal 夫人への思いは情熱的であり、かつ純粋な愛情だが、これまたもちろん「'intimate' なもの」だ。
 ところが、そうした個人的な感情が最終的には Renal 夫人の「強固なキリスト教的倫理観」と対立することにより、破滅へとつながっている。たしかに Julien は「ギリシア悲劇シェイクスピア悲劇の主人公たちほどには、人間以上の存在、人間を超えたものの世界を気にかけていない」ものの、キリスト教の倫理が 'forces which transcend man' の一つであることは言うまでもない。ならば本書においても、古典劇ほどではないにしても、ある程度 'The tragic stage is a platform extending precariously between heaven and hell.' と言えるのではないだろうか。やはり「Julien は正真正銘の tragic hero ではないものの、死の道を歩むことによって tragic hero に最も近づいている」。彼は「古典と近代の接点に立つ tragic hero」なのである。
 ひらたく言えば、本書は「ナポレオンが恋をして、その恋ゆえに破滅した悲劇」ということになるのかもしれませんな。自信はないが、以上がぼくの結論です。さて、モームは『世界の十大小説』で同じようなことを書いているのかな。さもなければ、どなたかフランス文学の先生が……いやいや、そんな僭越なことを想像してはいけません。とんでもない勘違いかもしれないのだから。
(写真は、丸之内和霊神社の本殿裏にある井戸跡。宇和島藩家老、山家清兵衛が藩主、伊達秀宗の上意討ちにあった際、9歳の四男がこの井戸に投げ込まれたという)。