ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Stendhal の "The Red and the Black"

 えんえん19回も雑感を書き綴ったおかげで、ようやくレビューらしきものにたどり着けた。われながら浮世ばなれした話だ。またおそらく、現代文学の趨勢とも関係ないだろう(仏語原作は1830年刊)。だが、ぼくにとっては青春時代以来の再々読であり、自分なりに真剣に取り組む必要があった。
 その分析過程で、ニーチェの『悲劇の誕生』と、George Steiner の "The Death of Tragedy" を部分的ながら復習できたことは望外の喜びである。Stendhal もそうだが、やはり巨人たちの著作に触れると、もはや現代文学ではめったに味わえなくなった知的昂奮を覚えるものだ。それが古典を読む最大の喜びかもしれない。
 追記:本書は1954年、クロード・オータン=ララ監督作品として映画化されました。

[☆☆☆☆★★] ご存じ世界十大小説のひとつに数えられる名作。その看板に偽りはまったくない。名作たるゆえんは二点に絞ることができる。まず題名に象徴されるように、幾重にも織りなされた対比の構造である。主人公ジュリアンと脇役たちを両軸に、身分の高下はもとより、精神的な意味での高貴と下賤、極論すれば聖と俗。あるいは有能と無能、非凡と凡庸。一見類型的な人物にしてもジュリアンとの相違を際だたせる役割を担い、しかも双方とも19世紀初期フランスの各社会層の代表者であり、それぞれ時代精神を象徴する人物たちである。それゆえ恋するジュリアンと脇役陣の関係は、個人の恋愛と社会や時代背景との対比という本書の根幹をなしている。一方、主要な人物はことごとく内面的に矛盾をはらんだ存在である。ジュリアンは清純無垢な心と野心やプライド、ルナール夫人は純粋な愛情とキリスト教倫理、マチルダは情熱と自尊心にそれぞれ引き裂かれる。彼らの恋はいずれも当初は一種の階級闘争であり、それが恋愛と社会という対比を形成。やがて真の愛情、あるいは激しい情熱が生まれ、そうした変化や「この女にしてこの恋あり」と如実に示された恋のしかたもすべて対照的。このとき、作者は読者さえも対比構造に組み込ませようとする。寸分の狂いもなく正確に計算された人物造形、ストーリー展開、話術。文学とは人間の生きかたを描いた芸術であるという意味において、本書は芸術の極みである。また一方、ここには鋭い文明批評も読みとれる。すなわち、文明の発達は浮薄の普及という斬り口だが、文明がもたらした凡庸な時代にあって、ジュリアンは真剣な恋をすることで俗欲から解放され、精神的に高貴なヒーローへと次第に近づいていく。この私人から公人へ、個人的苦悩が一般大衆の関心事へと移り変わるようすは、ジュリアンが近代小説の主人公から、ギリシア悲劇シェイクスピア悲劇の英雄へと接近する過程でもある。むろん正真正銘の悲劇的ヒーローではない。が、破滅を導くものとして、みずからの情熱的な性格と、身分制度固執する旧勢力、そしてなによりキリスト教倫理という三つの超個人的な要因があり、しかも、破滅を避ける手段を提示されながらもそれを拒否した点において、ジュリアンは古典劇のヒーローへ最接近している。ひらたくいえば、本書は「ナポレオンが恋をして、その恋ゆえに破滅する悲劇」であり、ジュリアンは古典と近代の接点に立つ悲劇的主人公である。古典劇と近代小説の衝突を物語る点に、本書の名作たる最大のゆえんがある。