ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(5)

 映画でも小説でも対決シーンがあるとガ然盛りあがるものだ。西部劇がいい例で、ヒーローが勝つに決まっているとわかっていても思わず目が釘づけになる。

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 表題作にもいくつか対決シーンがあり、もちろん勝敗がからんでいるわけではないが、そのピリピリした緊張感たるや超ド級。'... You told Mr Brocklehurst I had a bad character, a deceitful disposition; and I'll let everybody at Lowood know what you are and what you have done.'/ 'Jane, you don't understand these things; children must be corrected for their faults.'/ 'Deceit is not my fault!' I cried out in a savage, high voice./ 'But you are passionate, Jane, that you must allow; and now return to the nursery―there's a dear―and lie down a little.'/ 'I am not your dear; I cannot lie down: send me school soon, Mrs Reed, for I hate to live here.'(p.46)
 開幕から、ああそうだったっけ、と昔の記憶をたどりながら読んでいたのだけど、この Jane と Mrs Reed の火花が散るようなバトルで意識は現在進行形。Jane をいじめる Mrs Reed の仕打ちがあまりにひどく、ここで猛然といい返すJane に、やれいけ、それいけ、と声をかけたくなるほど惹きこまれた。
 ついで、Mrs Reed の意を汲む Mr Brocklehurst に教師や生徒たちの面前で、'Who would think that the Evil One had already found a servant and agent in her? Yet such, I grieve to say, is the case.' / ... '... this girl is―a liar!'(p.78)と罵られ、理不尽な懲罰をうける場面もすごかった。Jane は口ではなにも反論しないので対決とはいえないが、むろん腹のなかは煮えくりかえっている。「彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う」。
 でもまあ、このふたつのバトルでは西部劇のように善玉悪玉がはっきりしていて、よもや Mrs Reed  や Mr Brocklehurst に肩いれする読者がいるとは思えない。
 第三のバトルは Jane vs Rochester だが、これはメロドラマとしての本書の山であり、有名な話なので割愛。
 それよりぼくが圧巻だと思ったのは牧師セント・ジョンとの対決である。このほど英語で読んでみて記憶からすっかり抜けおちていたことを発見。きっと高校生のときはピンとこなかったはずだ。年をとり妙なところに感心するようなったのかもしれないけれど、とにかくここは本書でいちばん「知的昂奮を味わえる箇所」だろう。
 Mrs Reed や Mr Brocklehurst とちがって、St John の主張には彼なりに相当な理論的根拠があり、これをくつがえすのは至難のわざに思える。'Jane, come with me to India: come as my help-meet and fellow-labourer.'/ ... 'Oh, St John!' I cried, 'have some mercy!'/ I appealed to one who, in the discharge of what he believed his duty, knew neither mercy or remorse. He continued:―/ 'God and nature intended you for a missionary's wife. It is not personal, but mental endowments they have given you: you are formed for labour, not for love. A missionary's wife you must―shall be. You shall be mine: I claim you―not for my pleasure, but for my Sovereign's service.' / 'I am not fit for it: I have no vocation.' I said(p.448)
 おまえを愛しちゃいないけど信仰のためにおれについてこい、というのはかなりのムチャぶりだけど、それを大まじめに説きつけようとする情熱は狂信的であり、狂信ほど手ごわいものはない。
 そんな St John を Jane は冷静に観察している。To me, he was in reality become no longer flesh, but marble; his eye was a cold, bright, blue gem ...(p.457)そして彼の妹 Diana にこう述べる。'He is a good and a great man: but he forgets, pitilessly, the feelings and claims of little people, in pursuing his own large views.'(p.463)
 このくだりを読んでいて、ぼくはベルジャーエフの『人間の運命』を思い出した。「血のかよわない、抽象的で非人格的な愛や個々の人間の魂を認めようとしない精神的な愛は、実は愛ではない。それは残酷なまでに狂信的で非人間的な愛である」。さような「非人格的な愛」とは「ガラスの愛」である。(野口啓祐訳)
 Jane が St John の説得に応じなかったのはいうまでないが、幕切れで彼女はこうしるしている。The last letter I received from him drew from my eyes human tears, and yet filled my heart with Divine joy ... No fear of death will darken St John's last hour: his mind will be unclouded; his heart will be undaunted; his hope will be sure; his faith steadfast.(p.502)
 つまり Jane は St John を全否定しているわけではない。そこからぼくはこんな結論を導いたのだけど、たぶん素人文学ファンの早トチリでしょうね。「ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう『ヴィクトリア朝的妥協』とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか」。(了)