ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(20)

 イシュメールは「観察者としての役目」を果たすべく、五千年前と変わらぬ人間の永遠の姿を伝えるために生き残った。が、その役目はともかく、一人でも生き残ったことにより、ひとつ明るい意味が生まれている。どんなに恐ろしい流血の悲劇が起ころうとも、人類が絶滅することだけはない、ということだ。
 むろん核戦争の可能性を否定しきれない現代において、このメルヴィルの「予言」が正しいかどうかは分からない。が、遺作『ビリー・バッド』の序文にもあるとおり、メルヴィルは人間の進歩の可能性を完全に否定していたわけではない。ミルトン・スターンの名著、"The Fine Hammered Steel of Herman Melville" をもじって言えば、メルヴィルは人間が悲劇をくりかえす現実を直視しながらも、そのことに決して絶望しない「鋼のごとく鍛えられた精神」の持ち主だったのだ。
 エイハブの例に見られるように、人間は理想主義の衝動という「闇の力」に駆られ、正義の名のもとに惨劇を引き起こす。それは「五千年前と変わらぬ永遠の真理」である。けれどもメルヴィルは、「闇の力」の恐ろしさを熟知しつつ、ロレンスの言うように、「心底では…理想家だった」。その彼にとって、歴史とは惨劇のみで終わるものではない。ましてや人類の絶滅など到底考えられない事態だったに違いない。
 メルヴィルを論じたロレンスの『アメリカ古典文学研究』には、感動的な一節がある。「愛はけっして充足を与えてくれはしない。生活はけっして永続的な至福をもたらすものにはならない。楽園などありはしない。戦い、笑い、苦しい思いをし、楽しい思いをし、それからまた戦うのだ。戦い、戦いつづけるのだ。それがつまり生活だ」。(酒本雅之訳)
 結局、イシュメールの生存は、恐ろしい悲劇から人間が立ち上がる可能性を意味している。これはたしかに「明るい」材料だ。が、それが決してバラ色の未来を示唆しているわけではないことは既に明らかだろう。(続く)