同じ不倫を描いても大衆小説と文学史に残るような名作の違いはどこにあるのだろう、という興味から何十年ぶりかで『ボヴァリー夫人』を読んでみたが、その名作たるゆえんは、精緻をきわめた性格や心理の描写と、人間が持って生まれた欠点のせいで必然的に破滅する「性格悲劇小説」の原型であるという二点に絞られると思う。
さらに言えば、ダイグレッションや副筋の面白さ。早い話が、映画なら夫人の死で終幕となるところ、この小説では後日談がえんえんと続く。見方によっては蛇足かもしれないが、もし長大なエピローグがなければ、ますます「陳腐きわまりないメロドラマ」としての限界が露呈する。ひるがえって、こういう「蛇足」は大衆小説の場合、まず考えられない。
ところで、ぼくは毎年、夏になると世界文学の古典を英語で読むことにしていたが、今年はフローベールでおしまい。昨日の日記をつけたあと、前から読みたかった Elizabeth Hay の "Late Nights on Air" に取りかかった。カナダで最も権威のある文学賞、ギラー賞(The Scotiabank Giller Prize)の2007年度受賞作である。
これは今のところ、"Madame Bovary" とはまた違った意味で、えんえんとイントロが続いている。いや、そもそもイントロかどうかも怪しい。もう半分過ぎまで読んだところだが、やがて何か事件が起こりそうな伏線は張られているものの、いまだに事件らしい事件は何も起こっていない。それどころか、ストーリーらしいストーリーもない。ひょっとしてこのまま終わってしまうのでは…いや、まさかそんなはずは…と思いながら読んでいる。
では詰まらないかと言うと、とんでもない、これはとても面白い! 舞台はカナダ北部辺境の小さな町。75年の6月から始まる話で、今は11月に入ったところ。地元ラジオ局の支局長代理や女性アナウンサー、技師などが主な登場人物だが、それぞれのあいだに仕事上、ないしは男女間の緊張関係があり、その緊張が少しずつ静かに高まっていく。
彼らはまた、いずれも過去のある、もしくは過去から逃れ、新規まき直しを図ろうとしている人物でもある。ときおり混じる回想や他人の昔話を通じて、それぞれの過去が断片的に浮かびあがり、決してセンチメンタルではないが、ふと悲しい調べが流れる。そしてそのつど、陰影に富んだ人物像が見えてくる。
現地ではパイプラインの建設計画があり、先住民族もふくめた地元民を対象に何度も公聴会が開かれている。これがどうやら、何らかの事件の引き金になりそうな気もするが、勘の鈍いぼくはさっぱり先が読めない。さりげなく次第に高まる緊張、味のある人物、何が起こるか分からない面白さ…そんなこんなで、とにかく目が離せない!