ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “A Tale for the Time Being” (3)

 さて、本書が相当に読みごたえのある佳作であることを十分に認めたうえで、あえて重箱の隅をつつき、いささか気になる点にふれておこう。
 主人公 Nao の曾祖母 Jiko には、太平洋戦争末期に特攻隊員として戦死した息子 Haruki がいた。その名をもらったのが Nao の父親で、こちらは Haruki #2、大伯父のほうは Haruki #1 である。
 Haruki #1 は日記に宮沢賢治の童話『烏の北斗七星』の一節を引用し、こう書いている。I found myself recalling the scene where the Crow Captain is burying his dead enemy and he prays to the stars. Do you [Jiko] remember the passage? It goes something like this: / Blessed Stars, please make this world into a place where we will never again be forced to kill an enemy whom we cannot hate. Were such a thing to come about, I would not complain even if my body were torn to pieces again and again. / These beautiful words I believe are true and, now that I know I will sortie, they have such poignant meaning for me. Recalling this passage during dinner brought tears to my eyes. (pp. 323-324)
 ぼくは恥ずかしながらこの童話を知らなかったので、ネットで検索したところ、原文はこうなっていた。「あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません」。
 たしかに美しい言葉である。が、Haruki #1 は東大で哲学を学んでいたという設定であり、それなら賢治の童話だけでなく、同時にパスカルの『パンセ』を思い出してもよかったのではないか。「君は水の向こう側に住んでいるのではないか。友よ、もし君がこちら側に住んでいたとしたら、僕は人殺しになるだろうし、君をこんなふうに殺すのは正しくないだろう。だが、君は、向こう側にいる住んでいる以上、僕は勇士であり、これが正しいことなのだ」。「われわれが見る正義や不正などで、気候が変わるにつれてその性質が変わらないようなものは何もない」。「川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である」。(前田陽一・由木康訳)
 前にもこのブログで引用したくだりだが、この「滑稽な」正義の相対性、多元性という現実があればこそ、それを克服しようとする意味もある、とぼくは思う。つまり、もし仮に「憎むことのできない敵を殺さないでいゝ」世界があるとしたら、それはたしかに理想世界かもしれない。だが、人間とは一面、かくも「滑稽な」現実を生きるしかない哀れな存在なのだ。その現実を忘れ美しい言葉に涙するだけなら、それはセンチメンタリズム以外の何ものでもない。そう、上の場面だけでなく、ぼくは作者のセンチメンタリズムが気になるのである。