死期の迫っていること気づいた人間が死を恐れ、死を忘れようとして陽気にふるまい、何かに熱中する。考えてみれば当然の話である。が、本編を初めて読んだ当時、中1坊主だったぼくは、きっと思いもよらなかったのではないか。ただなんとなく、「年を取ってから読んだほうがもっと理解できるのでは」という気がしただけだ。
半世紀ぶりに読み返して長年の宿題を片づけたのはいいけれど、ごく簡単なことを理解するのにいったい何年かかったのだろう、と思うとイヤになる。それが人生というものだと諦めるしかない。
ほかにも珍しくない発見があった。Klingsor は美しい少女を見そめただけでなく、ある農家の女と、注意ぶかく読めば明らかに関係している。そのあたり、とんと記憶にない。たぶん少年のぼくにはピンと来なかったのだろう。が、少女のほうははっきり憶えている。いかにも少年らしい読み方で、思わず苦笑してしまった。
ともあれ、圧巻は終章〈The Self-portrait〉である。ここで Klingsor は自画像に取り組んでいる。'This frightening, yet so magically painting, the last of his works to be entirely finished, came at the end of that summer's labors, at the end of an incredibly fervid, tempetuous period of work, and was its glory.' (p.211) その実際の活動ぶりは猛烈そのもので、陳腐な形容だが「熱に浮かされたように」としか言いようがない。それを要約したのが 'In those madly intense days Klingsor lived like an ecstatic.' (p.213) という一節。ああ、だからその昔、訳がわからないまま心に焼きついたんだな、と合点した。
それは見る人により、いかようにでも解釈できる絵とのことだが、さまざまな見方が成り立つのはこんな事情からだ。'He saw many, many faces behind the Klingsor's face in the big mirror, ... and he painted many faces into his picture ....' (p.212) 'And it was not only his face, or his thousand faces, that he painted into this picture, .... he painted his life along with it, his love, his faith, his despair.' (p.214-215) こうした説明の前後はまさに 'incredibly fevid, tempetuous, madly intense' な描写の連続で、火花が散るほど異様な熱気に充ち満ちている。思うに Klingsor は死ぬ前に、自分をとことん記録、認識、理解しようとしていたのではあるまいか。
(写真は和霊神社の本殿)。