Aschenbach は美少年を見かけ、その 'perfect beauty' (p.25)、'the godlike beauty of the human being' (p.28) に胸を打たれる。それが結局、彼の破滅へとつながるわけだが、では彼は最初から至高の美の追究者だったのだろうか。メモを頼りに拾い読みしてみたが、どうも直接、明確に示すような記述は見当たらない。
ただし、だから後半、彼は美への愛にのめりこんでしまったのかな、と思えるところはある。例の「Aschenbach が作家としての名声を博するに至ったプロセス」である。味も素っ気もなく要約すると、天才と努力のたまものだということになるが、もちろんその努力篇のほうがおもしろい。
まず、それが芸術家としての努力であることは言うまでもない。'his favourite motto was "Hold fast" ' (p.9) 'the idea that almost everything conspicuously great is great in despite .... was precisely the formula of his life and fame, it was the key to his work.' (pp.10-11) ほかにも、'the strains and stresses of his actual work' (p.9)、'fortitude under suffering' (p.9)、'he sacrificed to art .... the powers he had assembled in sleep.' (p.10)、'an endurance and a tenacity of purpose' (p.10) といった言葉を拾って行くと、Aschenbach が創作のため、芸術のために刻苦精励した様子がよくわかる。
後半、少年に夢中になった Aschenbach が、果たしてこのままでいいのかと疑問に駆られる瞬間がある。そこで彼は自分の芸術家としての人生を 'life in the bonds of art' (p.55) と要約し、こう振り返っている。'It had been a service, and he a soldier .... art was war ― a grilling, exhausting struggle .... It had been a life of self-conquest, a life against odds, dour, steadfast, abstinent ....' (p.55) こうしたくだりから、禁欲的な厳しい芸術生活を長年続けた Aschenbach がふと美少年を見かけ、束縛のない「美への愛にのめりこんでしまった」という〈反動説〉も成り立つかもしれない。
が、ぼくにとって興味深いのは、この芸術家としての努力が同時に時代の空気をも反映している点である。'Gustave Aschenbach was the poet-spokesman of all those who labour at the edge of exhaustion; of the overburdened, of those who are already worn out but still hold themselves upright; of all our modern moralizers of accomplishment, with stunted growth and scanty resources, who yet contrive by skilful husbanding and prodigious spasms of will to produce, at least for a while, the effect of greatness.' (p.11) これが上の回顧では、このように要約されている。'he had made it [this life in the bonds of art] symbolical of the kind of over-strained heroism the time admired ....' (p.55)
Aschenbach が 'the poet-spokesman' だった時代はどんな時代だったのか。冒頭に戻ると彼は50歳。設定されている年は、'that year of grace 19 ―, when Europe sat uon the anxious seat beneath a menace that hung over its head for months' (p.3) である。この 'a menace' とは何だろう。後半、'For the past several years Asiatic cholera had shown a strong tendency to spread.' (p.62) とある疫病のことかとも思ったが、months と years では計算が合わない。ただし、ヨーロッパだけの流行に限定すると、'a menace' はやはり疫病を指しているようにも思える。
本編の発表は1911年。第一次大戦勃発は1914年。つい歴史の流れを感じてしまう。それゆえぼくは、後半に出てくる疫病のことを忘れ、'menace' を拡大解釈して「第一次大戦の暗雲が垂れこめかけた」時代と書いたのだけれど (雑感2)、これは勘違いにしても、当たらずしも遠からずのような気がする。つまり、産業革命を果たして国力を蓄えたドイツ帝国が、他の大国との軍事衝突に向かって少しずつ歩みはじめていた時代。それが50歳の Aschenbach が生きていた時代なのだ。
そう考えると、彼はただ、長年にわたる「禁欲的な厳しい芸術生活」の反動からのみ、「至高の美」を求めたのだろうか。そこにはやはり「時代の空気」も反映されているのではないか。ふと、そんな気がしてくるのである。
(写真は、宇和島城天守閣の中にある第7代藩主、伊達宗紀(向かって左)と第8代藩主、伊達宗城の肖像画)。