ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Red and the Black" 雑感(13)

 若い頃、ニーチェの著作は白水社版の全集で何冊か、まめにノートを取りながら勉強したことがある。が、『悲劇の誕生』は中公版〈世界の名著〉で読んだだけで、そのうち勉強しなければと思っているうちに、夢のようにざっと40年が過ぎてしまった。
 そこで、あやふやな昔の記憶を頼りに全集版をパラパラめくっていると、ようやくお目当ての箇所が見つかった。「エウリピデスによって観客なるものが舞台に登場させられた」。「エウリピデスによって、日常生活の人間が観客席から立ち上がって舞台へ登ったのであり、従来は偉大で不適な顔つきだけしか表現しなかった鏡が、いまでは、自然の作り損なった線までも確実に再現する、あのうるさい忠実さを写し出すのである。」(浅井真男訳)
 有名なくだりだと思う。アイスキュロスソフォクレスの悲劇では、高貴な人物の没落や偉大な英雄の破滅が描かれていたのに対し、エウリピデスに至って「悲劇は死んだ!」。エウリピデスが「日常性」、「市民的凡庸性」、「だれでも判断できるような普遍的な、周知の、日常的な生活を描出し」、かくして英雄の悲劇は単なる凡人の悲しい劇に成り下がってしまった、というわけである。
 異論は多いはずだが、ぼく自身はニーチェの言うとおりだと思っている。歴史的な経緯はさておき、少なくとも、市民の日常生活で起こる悲しい事件を描いた劇は、観客に涙を流させることが主目的であるのに対し、「高貴な人物の没落や偉大な英雄の破滅」をテーマにした悲劇のほうは、ただ「観客に涙を流させる」だけではない。感動を与えるのである。シェイクスピア劇や、ぼくが本ブログでえんえんと論じた "Moby-Dick" などを読んだときに覚える感動は途方もなく大きい。深入りするといくら時間があっても足りない問題なので、例によって大ざっぱな「雑感」でお茶を濁すことにするが、「高貴な人物」や「偉大な英雄」の悲劇のほうが、その感動の大きさゆえに本物の悲劇だと思うのである。(「こら、大ざっぱすぎるぞ!」という某先生のお叱りの声が聞こえてきそうです)。
 で、こうした意味での悲劇をもたらすものが、George Steiner によれば、'the shortness of heroic life, the exposure of man to the murderous and caprice of the inhuman' や 'the forces which shape or destroy our lives lie outside the governance of reason or justice'、'daemonic energies which prey upon the soul and turn it to madness or which poison our will so that we inflict irreparable outrage upon ourselves and those we love' である。これをぼくは「人知を越えた、人間にはコントロールできない力」と要約し、シェイクスピア劇では「人間の性格そのもの」がそういう力になっている、と述べたわけだ。これはまた、真の悲劇が与える感動の本質でもある。偉大な人間が人間の力ではどうしようもないものに立ち向かって破滅する。その偉大たらんとして破滅する姿が感動を呼ぶのだ。
 なんだか、いい加減な文学部の授業内容を書き写したような話でお恥ずかしいかぎりだが、ぼくが悲劇の定義にこだわっているのは、ほかでもない "The Red and the Black" の主人公、Julien Sorel が「tragic hero と言えるのか」という問題がかなり気になっているからである。たしかに彼は破滅する。事実ぼくも、「全巻最後の一文を読んで柄にもなく目頭を熱くしてしまった」。だが、記憶の底からよみがえってきたニーチェや Steiner の言う意味で、彼ははたして tragic hero なのだろうか。今しばらく考えてみたい。
(写真は伊達家の菩提寺、大隆寺にある宇和島藩初代藩主伊達秀宗正室、亀姫の墓)。