ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Elena Ferrante の “The Story of the Lost Child” (3)

 きのうはうっかり、「偉大な人間の恋愛がすぐれたメロドラマである」などと舌足らずな珍説を述べてしまった。少しだけ補足しよう。「主人公が偉大な人間であればあるほど偉大な小説になる。メロドラマもまたしかり」。これでどうでしょうか。
 すぐれた小説の条件はいろいろあるが、主人公の偉大さもそのひとつに挙げられるはずだ。まっ先に思い浮かぶ例は Captain Ahab だが、"Moby-DIck" はむろんメロドラマではない。メロドラマに絞ると偉大なヒーローは誰かな、と考えているうちに思い出したのが、前回ふれた "For Whom the Bell Tolls" の Robert Jordan というわけである。
 しかしながら、この論にはまだ欠陥がある。ひるがえって、こんな疑問が生じるからだ。平凡な人間のメロドラマはすぐれた作品たりえないのだろうか。
 念のため、新明解国語辞典(第5版)でメロドラマの定義を調べてみた。「愛し合いながらなかなか結ばれない男女の姿を感傷的に描いた通俗ドラマ」。
 なるほど、簡潔ですな。ただ、この定義に従うと、「すぐれたメロドラマ」とか「傑作メロドラマ」というのは言葉の矛盾になってしまう。でも "Anna Karenina" なんて、あれはもう世界に冠たるメロドラマでしょう。だから「通俗」だけ余計なのでは。
「感傷的」というのも気になるが、ひとまず上の疑問に戻ろう。凡庸な人物が主人公であっても、さすがに偉大とは言えないが、すぐれたメロドラマはありうる、というのがぼくの答えだ。
 それは凡人が偉大な人間になるプロセスを見ればわかる。Robert Jordan の場合、彼は戦争、そして死という大きな障害に直面したとき、雄々しく立ち向かい、自分を犠牲にして死んでいくことによって偉大なヒーローとなる。
 つまり、主人公の前に立ちはだかる障害が大きければ大きいほど偉大な小説になる。メロドラマも似たようなものだ。運命のいたずらであれ、他人の横槍であれ、「なかなか結ばれない男女」の仲を引き裂く要素が多ければ多いほど傑作メロドラマになる。このとき主人公はべつに凡人でもかまわない。とにかくそんなドラマは非常におもしろい。
 なんだか "The Story of the Lost Child" の話から脱線してしまったようだが、じつはそうではない。本書は、ぼくの考える「すぐれたメロドラマ」の条件を満たしていない、と言いたいのである。
(写真は、宇和島市辰野川にかかる野川橋。近くには伊達家の菩提寺金剛山大隆寺があり、この橋の近辺で寺町界隈も終点となる)