ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nadine Gordimer の “The Conservationist”(4)

 最後の補足をしておこう。本書は1974年のブッカー賞受賞作だが、いまのところまだ邦訳は出ていないようだ。その理由はおそらく、「決して面白い読み物ではない」からだろう。要するに、「売れない」という判断が昔からあるのではないか。
 ところが、内容はどうして立派なものである。「読めば読むほど率直に、なるほど人間とはこんなものだと思わずにはいられない」。「平凡の平凡たるゆえんをこれほど正確かつ詳細にえがいた作品も珍しいのではないか」。
 それほどまでにホメておきながら、ぼくの評価は☆☆☆★★(約70点)。いま思うと★をひとつオマケしてもよかったな、という気もするが、第1インスピレーションを優先しておこう。
 減点材料は、「決して面白い読み物ではない」ということでは決してない。「読めば読むほど」、人間にはまだまだ本書にえがかれていない要素がたくさんあるぞ、と思ったからだ。
 たしかに「多くの場合、人間は現実に流されながら平凡な生活を送」っている。が、その平凡な現実を超えようと人間がひそかに思っていることもまた現実であろう。
 なんだか禅問答みたいになってきた。具体的に述べよう。ぼくは本書を読みながら、これとは対極の世界にある文学作品を思い浮かべずにはいられなかった。
 メルヴィルドストエフスキーの諸作から引用するのはシンドイ。簡単な例を挙げよう。Robert Jordan lay behind the tree, holding on to himself very carefully and delicately to keep his hands steady. He was waiting until the officer reached the sunlit place where the first trees of the pine forest joined the green slope of the meadow. He could feel his heart beating against the pine needle floor of the forest.
 そう、"For Whom the Bell Tolls"(1941)の幕切れである。ぼくは学生時代、このくだりを読みおえたときのことをいまでも鮮明に憶えている。あのとき、Robert Jordan が感じた胸の鼓動は、たしかにぼくの胸にも伝わってきた。
 いま思うと、Robert Jordan は上の場面で、およそ人間が達しうる最高の高みのひとつに達していたような気がする。そしてそういう「高み」こそ、文学的な感動を生むのだとも思う。それは "The Conservationist" とはまさに「対極の世界」である。
 ひるがえって、"The Conservationist" のほうには感動がない。当たり前だ。Gordimer は Hemingway とはまったく異なる観点から人間をとらえ、「平凡の平凡たるゆえん」をえがいているのだから、どうにも感動しようがないのである。というわけで、ないものねだりのイチャモンだと思いつつ、辛い点数をつけてしまった。
 それにしても、"For Whom the Bell Tolls" からわずか30年あまりで「身の丈の低い人間」の現実がえがかれるようになったとは驚きを禁じえない。いまはそれからさらに40年以上もたっている。このかんの文学の流れを「人間のスケール」という点から検証しても面白いかもしれませんな。
(写真は宇和島市妙典寺)