ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

J. M. Coetzee の “The Schooldays of Jesus” (1)

 今年のブッカー賞候補作、J. M. Coetzee の "The Schooldays of Jesus" を読了。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★★] 前作『イエスの幼子時代』から一歩前進。が、イエスの少年時代をモチーフにした物語にしては、やはり心に響いてくるものがない。倫理道徳にかかわる問題への突っこみが甘いからだ。少年ダビードは舞踊学校に入学。そこで「魂の修練」を受け、宇宙の根本原理を象徴するかのような踊りをマスターする。が、いわば天上の世界にいるダビードの立場が、世俗的な価値観・教育観の持ち主である父親代わりのシモンにはなかなか理解できない。このあたり、イエスと律法学者の対立が下地にあるのかもしれない。それは後半に起きた異常な殺人事件にも当てはまりそうだ。シモンもふくめ世人には動機不明だが、犯人と親しかったダビードのみが理解を示す。天界の踊りが説明不可能であるように、そして神が超論理的な信仰の対象であるように、神の定めた善悪もまた、地上の論理では説明できない。けれどもダビードは生来、直感的に善と真理を洞察する力を持った例外者なのだ、というわけである。こうした天上と地上、聖と俗を対比させるような物語を巧みに作りあげている点では一歩前進。しかしひるがえって、天上の真理は地上の凡人の知りうるところではないとは、あまりに当然の帰結で肩すかし。ダビードの天賦の才も当たり前すぎて、イエスの少年時代の逸話としては新味がない。ここはひとつ、殺人というすこぶる道徳的な問題を足がかりに、天上の正義と地上の正義の相違について深く考察すべきであった。一般常識を疑うダビードと、常識人シモンの問答にしても、根源的な問題ほど正解はないという平凡な指摘に終わっている。どのエピソードも話としてはおもしろいが隔靴掻痒、知的昂奮をおぼえることはまずない。トルストイの『幼年時代』との落差に愕然としてしまった。