ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

J. M. Coetzee の “The Schooldays of Jesus” (4)

 上滑りで尻切れとんぼの問答は、ほかにもたくさんある。(Simon) '.... if you were in the desert, dying of thirst, you would give everything you owned for just a sip of water.' 'Why?' says the boy [David]. 'Why? Because staying alive is more important than anything else.' 'Why is staying alive more important than anything?' (p.51)
 このあと Simon は、David の質問に業を煮やしてこう述懐する。'.... he would like to believe he is guiding the child through the maze of moral life when, correctly, patiently, he answers his unceasing Why questions. But where is there any evidence that the child absorbs his guidance or even hears what he says?' そのあげく、Simon はすっかりキレてしまい、'Why is staying alive imortant? If life does not seem important to you, so be it.' と突き放す。
 さて、上のDavid の問いはまさしく根源的な問題である。はたしてどんな答えが示されるのだろうと期待せずにはいられない。ところが、以上のとおりプッツン。つまり、「一般常識を疑うダビドと、常識人シモンの問答にしても、根源的な問題ほど正解はないという指摘のみに終わっている」。なんだ、そんな中途半端なことなら、どうしてこういう人生の重大事を話題にするのか!とトルストイならプチ切れていたのではないか、という気がする。
 いや、これは大人と子供の対話なのだから仕方がない。問題の指摘だけで十分。むしろ、そのことにふれた David の炯眼ぶりは、まさにイエスの少年時代にふさわしいものだ。大人や一般人の思考停止をあばいたみごとなエピソードである。こういう逸話を思いつくとは、さすがは Coetzee、じつにすばらしい。と、そんな反論もあることだろう。
 が、ぼくはそうは思わなかった。「ダビドの天賦の才を示すだけなら、そもそもイエスの少年時代を小説化する意味はほとんどあるまい」と考えるからだ。なにしろ「神の子」イエスである。幼いころから人並みはずれた才能の持ち主だったと聞かされても、そんなの当たり前でしょ、と言うしかない。
 上のような根本問題がどう解決されるのか。解決されないまでも、どんな道筋が示されるのか。真の興味はそこにあるはずだ。そこまでフィクション化しなければ、しょせん「上滑りで尻切れとんぼ」。つまり、「話としてはおもしろいが、どこを読んでも隔靴掻痒。知的昂奮を覚えることはまずない」。
 上の David の質問の先には、さらにこんな問題がある。獄中の Socrates と友人 Crito の対話を読んでみよう。S: .... the really important thing is not to live, but to live well. C: Why, yes. S: And that to live well means the same thing as to live honourably or rightly? C: Yes. (Plato "The Last Days of Socrates" Penguin Classics p.87)
 こういうところまで突っ込んであれば文句はなかったんですけどね。
(写真は、宇和島市佐伯橋からながめた神田(じんでん)川。ぼくは少年時代の冬の日、ふと橋に立ち止まり、川に降る雪を茫然とながめていたことがある)