ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Sandor Marai の “Embers” (4)

 Sandor Marai の作品が wiki の記述どおり、「ヨーロッパ文学の正典の一部」ではないかと推測するゆえんはもうひとつある。それは、彼が「国家や民族、文明、文化、歴史などの問題を見すえた巨視的な人間観」の持ち主であると同時に、人間の心の中を真摯に見つめる作家だったと思われるからだ。
 前々回の引用箇所に戻ろう。将軍は 'We kill to protect high principles and important human values' と述べる一方、'we have a sense of guilt, we are the product of Western civilization. ' とも言う。さらに続けて、'Our history, right up to the present, is filled with mass murder, but whenever we speak of killing, it is with eyes lowered and in tones of pious horror'
 このように、罪悪感ゆえに「目を伏せて」大量殺人について語る。将軍の伏せた目は、明らかにおのが心中に向けられている。しかも自分だけでなく、西欧人全体を代表して「心の中を真摯に見つめ」ている。
 こうした内面検証を示すくだりはほかにもある。'I do not wish to defend myself, because what I want is the truth, and whoever does that must start the search inside himself.' (p.137)  'All that counts is what remains in our hearts.' (p.210)
 ぼくはこの点を踏まえ、「作者は西欧文明を総括し、理想のために流血の惨をもたらした西洋人の心の奥に分け入りながら……」とレビューにまとめた。文明や歴史などというマクロの問題を、内面検証というミクロの目でとらえる。これこそまさに文学作品が「正典」たりうる条件ではないだろうか。
 ひるがえって、現代の作家はどうか。故 Kevin 氏のように守備範囲が広ければ話はべつだろうが、ぼくの乏しい読書体験では、Sandor Marai のような作家にはめったにお目にかからなくなった。巨視的な人間観も、道徳的な内面検証もほとんど認められない作品が主流、と言ってもいいかもしれない。
 どうしてこんなことになったのか。ぼくには、ある推論があるのだが、その話はまた機会があればそのときに、ということにしておこう。ともあれ、偉大な作家を教えてくれた故 Kevin 氏に、改めて哀悼の意を表します。
(写真は、6年前に撮影した宇和島中町(なかのちょう)教会。正面の植え込みと、右側の家は、今はもうない。ぼくが教会付属の幼稚園に通っていた当時、この家に園長先生がお住まいだった。森場先生という、いつもにこにこしている優しい先生だった。このほどネットで調べたところ、森場政吉というお名前だとわかった。1978年に『日本基督教団宇和島中町教会九十年誌』というご著書を出されている。森場先生はシベリア抑留体験がおありだったとのこと。ちっとも知らなかった。あの笑顔の裏には、さぞつらい思いが秘められていたことだろうと想像する。ぜひお話をおうかがいしたかった)