あああ、6月も終わってしまいましたね。1年契約のテンプながら元の職場に復帰してもう3ヵ月。陳腐なせりふだが、あっと言うまに時が流れていった。
そのかん、読書量は激減。洋物はブログにアップしたとおりだけど、寝床読書にしても、1月から読みはじめた『夜は短し歩けよ乙女』がようやく半分、今月文庫本が出た『マチネの終わりに』も第2章で足踏みしている。
というわけで、いつから取りかかったのかも忘れそうな Akwaeke Emezi の "Freshwater"(2018)、電車やバスの中でしか読まないせいもあって、サッパリ進みません。休日なら家で読めるだろ、と思われるかもしれないが、ぼくの商売では〈自宅残業〉を強いられるので、まずそちらを片づける。すると、それほど面白くないと分かっている本などあまり読む気になれず、デンデケデケデケと昔懐かしいベンチャーズを聴いたりしてストレスを発散。きょうもそうだった。
この本、Ada という女の子(いまは19歳)にほかの人格(?)が取り憑く物語で(?)、Ada が男の子と付き合うときなど、その他人(いまは Asughara)と Ada 自身が押し問答したり、Ada と Asughara が入れ替わりでボーイフレンドと話をしたり、というヘンテコな設定である。へえ、なかなか面白いじゃん!
どうですかねえ。とんでもない勘違いかもしれないけれど、もしこれが二重人格を現代風に、と言うかSFっぽくと言うか、とにかくそんなテーマを趣向を変えて扱っているのだとしたら、ううん、それなら例の『ジキル博士とハイド氏』のほうが、ずっとましなのでは、という気もする。
ぼくはあの有名な古典、中学生のときだったか翻訳で読んだきりだし、いま書棚を見わたしたところ、原書も持っていないようだ。それでも、定かでない記憶をたぐってみると、たしかあれは、人間の心中にひそむ善悪とその葛藤を象徴する話だった。ちょっと図式的だな、と子供心に思った憶えがうっすらある。
そんな『ジキル博士』でも、二重人格をあのように描く意味はあったのでは、とこれはいま思うのだが、ひるがえって、"Freshwater " のほうはどうなんでしょうか。むろん、繰り返すが、ひどい勘違いをしている可能性は大いにあるのだけど、いまのところ、これはもっぱら、それほど独創的でもないアイデアだけで保っている小説のような気がする。果たしてその真相は?
(写真は、愛媛県宇和島市、四国八十八箇所霊場の第四十二番札所、佛木寺の門前を走るフラワーロード。去年の春に撮影)