ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Akwaeke Emezi の “Freshwater”(1)

 このところ、テンプながら復職した勤務先が超繁忙期。おかげで、ただでさえ遅読症なのに文字どおりカタツムリくんのペースだったが、それでもゆうべ、やっとのことで Akwaeke Emezi の "Freshwater"(2018)を読みおえた。今年の Women's Prize for Fiction の一次候補作である。
 Emezi はナイジェリア出身の若手女流作家で、本書は彼女のデビュー作とのこと。気の早い現地ファンのあいだでは、今年のブッカー賞ロングリストに入選するのでは、ともっぱらの評判なのだが、さてどうでしょうか。 

Freshwater (English Edition)

Freshwater (English Edition)

 

[☆☆☆★] ナイジェリア生まれでアメリカに渡った少女アーダの心に、つぎつぎとべつの人格(とおぼしき存在)が憑依する。やがて同じボーイフレンドを(本来はひとりのはずの)ふたりの娘が奪いあうといった、尋常ならざるエピソードが続出。そんな鬼面ひとを驚かすような設定が当初はおもしろい。が、異常がつづくとそれが当たり前になり、やがてどんなに珍奇な事件が起きてもさっぱり驚かなくなる。それどころか、上のように複数の人格の対立は、もっぱら恋愛とセックスをめぐる痴話げんか。せいぜい純情と欲望のせめぎあいにすぎず、その延長でときどき孤独や実存の問題に発展することはあっても、「ふたり」のそれぞれ異なる価値観や理想、信念などにもとづく激突はついに起こらない。ならば多重人格をテーマとすることに、いかほどの意味があろう。さんざん趣向を凝らしたあげく、「わたしたちはひとり。そしてわたしたちは多くのひと」が結論とは、大山鳴動して鼠一匹。別人同士の争いを通じて作家自身が内的矛盾を吐露し、その葛藤を赤裸々に綴った伝統的な小説のほうが、よほど劇的である。痴情のもつれを十年一日のごとく読まされるよりはましながら、ゆれ動く娘心を多重人格に仮託して描くという、さして独創的でもないアイデアでもった水準作である。