前にも書いたとおり、"Eventide" における Kent Haruf の文体が「ヘミングウェイを思い出させる」という新聞評は的を射ている。その例は随所に見られるのだが、中でもぼくが「あ、これはヘミングウェイだな」と思ったのは、幕切れ近く、ある少年が遊び仲間だった少女と別れる場面だ。
少年は両親に死なれ、祖父のもとで暮らしている。少女の父親は長らく不在、母親は心がすさみ、子供のことを顧みない。孤独な少年は薄倖の娘と意気投合、学校が終わると、自宅近くの小屋をいわば秘密の隠れ家として、一緒に本を読んだりして遊んでいた。ところが、少女の母親がやがて仕事を見つけ、引っ越すことになる。
別れの日、少女を見送った少年は、二人で遊んだ小屋の中に足を踏みいれる。その情景描写がまさにヘミングウェイばりなのだ。暗い影。ロウソクに火をともす。目についたのは、一緒に遊んだゲーム、お菓子を食べるのに使ったお皿。しかし、少女がいなくなった今、同じものはもう何ひとつなかった。…
これは『武器よさらば』の最後とまったく同じハードボイルド調である。雨の中、恋人に死なれた男がホテルに引き返すあのシーンだ。感傷を殺し、即物的な描写を淡々と続けることにより、かえって万感の思いが伝わってくる。
むろん、この "Eventide" には、『老人と海』のサンチャゴ老人や、『誰がために鐘は鳴る』のロバート・ジョーダンのように、敗北を覚悟で危険や死と立ち向かう雄々しい人物は登場しない。そこが同じハードボイルドでもヘミングウェイとは決定的に異なる点だが、少なくとも文体的には非常に似通っている。
ともかく、ひさしぶりに「行間を読ませる」小説に出会い、ぼくは大いに満足した。いくつか欠点は目につくものの、致命傷というほどではない。Kent Haruf は処女作の "The Tie That Binds" も入手しているので、来年あたりぜひ読んでみたいものだ。