ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

“The Lacuna”雑感(3)

 先日の音楽特番につづいて今朝の番組でも、平原綾香の「Jupiter」を生歌で聴いた。やっぱり何度聴いても心にしみるし、元気が出てくる。そのあと、このところ節電のため自粛していたBGMとして、彼女の「マイ・クラシックス」シリーズを流しながら「自宅残業」。仕事のノルマが片づいたところで本書の続きを読みはじめた。
 が、どうもやはりクイクイ度が足りない。退屈とまでは言わないけれど、これが "Prodigal Summer" と同じ作者の作品かと思うとがっかりする。たとえば、主人公がメキシコでトロツキーの秘書となった一件だが、トロツキーのメキシコ亡命といえば、誰でもその暗殺が最大の事件だと知っている。で実際、暗殺が起きるのだが、ドラマティックな展開としてはイマイチ盛りあがりに欠ける。いや、ほかの史料から得られる興奮と大差ないと言ったほうが正確かもしれない。それより何より、暗殺の意義にしても、裏話という意味でも、史実に付け加えるものが何もないのが致命的である。今さらスターリンの冷酷さなんて読まされても、面白くも何ともない。
 クイクイ度が足りないのは、主人公の青年の日記が中心という本書の叙述形式も一因かもしれない。たとえばトロツキーの亡命生活にしても、青年は自分が見聞きしたことをつぶさに書きとめている。それぞれのエピソードはユーモアあふれる描写もあってまずまず面白い。が、青年はいわば黒子に徹し、見聞した事件を客観的に報告するだけにとどまっているため、トロツキーという世界史的に重要な人物と接することでどんな感化を受けたのか、あるいは受けなかったのか、という点がほとんど示されていない。
 歴史小説や大河小説の醍醐味のひとつは一般に、主人公が大きな歴史の流れに巻きこまれるところにあるのだが、本書の場合、青年は今のところ、歴史の流れを見つめてはいても、巻きこまれているとは言いがたい。少なくとも翻弄はされていない。序盤のメキシコ革命にしても、中盤のトロツキー暗殺にしても、今読んでいる第二次大戦中の日系人の強制収容にしても、そういう歴史上の大事件と主人公との心理的な距離がかなり遠いのである。
 ひょっとしたら、作者のねらいは歴史小説や大河小説ではないのかもしれない。むしろ、青年の生き方そのものに主眼があるのだろうか。後半は、そんな観点から取り組んでみることにしよう。