ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

“Bel Canto” 雑感 (3)

 きょうは仕事帰りに〈スタバ〉に寄り、本書の続きを読んだ。あと少しがんばれば読みおえられそうだが、土曜日は晩酌デー。これから一杯やることにしている。
 それまでにちょっとだけ、本書を読みながら考えたことを書いておこう。おととい眠い目をこすりつつ読んでいたぼくは、人質のひとりがショパン夜想曲を弾きはじめたところでハッと目が覚めた。'From all over the house, terrorist and hostage alike turned and listened and felt a great easing in their chests. There was a delicacy about Tetsuya Kato's hands, as if they were simply resting in one place on the keyboard and then in another. Then suddenly his right hand spun out notes like water, a sound so tight and high that there was a temptation to look beneath the lid for bells.' (p.127)
 この 'terrorist and hostage alike' というくだりがぼくには興味ぶかい。音楽は、いまさら言うまでもなく耳の奥にストレートに訴えかけてくる芸術だ。思考や、おそらく意識のフィルターにさえかけられることはない。それゆえ、政治的立場のいかんにかかわらず、人びとの胸に感動を与える。その瞬間、人びとは奇跡的にひとつになる。……いや、ほんとにそうなのかな、という点が興味ぶかいのだ。
 このあと、べつのシーンでは美しい歌声が発せられ、テロリストも人質もいちように聴きほれる。そして彼らのあいだでは、それ以前とくらべて明らかに異なる〈心のふれあい〉に似たものがはじまる。その〈ふれあい〉がどう発展するかが、本書の読みどころのひとつと言ってもいいかもしれない。
 ともあれ、音楽は万人の心に響くものだが、その感動は万人を結びつけるものなのだろうか。残念ながら、おそらくそうではない、というのがぼくの直感的な結論だ。この直感が正しいと仮定すると、そこに横たわっている障害は何なのだろう。「思考や意識のフィルター」だろうか。それぞれの政治的立場か。
 以上、アシュケナージ盤で夜想曲を聴きながらボンヤリ考えた。大問題のような気もするが、もう時間がない。
 余談だが、ネクラのぼくは、ショパンを聴くとさらに暗くなるのでいままで敬遠していたが、ひさしぶりに聴くと、昔のように胸をかきむしられることもない。年をとりました。