ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Death in Venice" 雑感(6)

 ヴィスコンティの名画のほうは、なんとなく憶えている程度。だからもう一度見直さないと断定はできないが、主人公 Aschenbach が名声を博するに至ったプロセスと、彼が美とエロス、破滅を関連づけて述べた美学論のくだりは、映画ではひょっとしたらカットされているかもしれない。
 あるいは、Aschenbach が原作では作家であったのに対し、映画では作曲家に変更されている点からして、名声へのプロセスにしても美学論にしても、何かべつの形で表現されている可能性もある。なにしろ上のふたつはどちらも映像では表現しにくい箇所だが、これがないと小説としてはふくらみに欠ける。同様に、映画でも〈老人の少年愛〉だけでは単調になる恐れがある。およそ単調な作品なら名画たりえないだろう。
 映画で実際、どんな仕掛けがほどこされているかは再見のお楽しみ。それより、そのとき、そこに1900年代のドイツ、あるいはヨーロッパの「時代の空気」が反映されているかどうかをぜひ確かめてみたい。うっすらと記憶にある映画の印象では、何やら倦怠感めいたものも表現されていたような気がする。あれはあの時代独特のものなのだろうか。
 それはさておき、前回までぼくは、原作のほうの時代背景について縷々述べてきた。ぼくが勝手に背景にあるものと思っているだけかもしれないが、作品に時代を読み取る、時代が読み取れるというのは、ぼくの乏しい Thomas Mann 体験ではいつも痛感していることである。"Buddenbrooks" から "The Magic Mountain" へ、そして "Doctor Faustus" という流れは、そのままドイツ国民の精神史と言えるからだ。
 それゆえ、この "Death in Venice " も、という目で読んでしまったわけだが、一方、〈老人の少年愛〉という点だけに絞ってみても、これはこれですごい。Thomas Mann が時代とは関係のない芸術至上主義的な作品を書くわけない、と思いながらも、そのすこぶる芸術的な技法に驚嘆してしまった。
 老人が美少年にひと目ぼれしてストーカーになり、少年のほうも、まんざらではないというそぶり。が、具体的にどうこうという関係には発展しない。そこへ疫病が発生、早く避難すればいいものを、老人は美少年のそばから片時も離れられず、そのままヴェニスに残りつづけ、そして死ぬ。
 という主筋のどの場面、つまり「ひと目ぼれ」、「ストーカー」、「まんざらでもないそぶり」などなど、どこを取っても秀逸な描写がある。説得力がある。何より Aschenbach が死んだとき、いたく胸に迫るものがあった。刻苦精励の末、齢五十にして至高の美を知り、それを愛することで至上の愛を知り、そのあげく死んで行く。ああ人生、何とはかないものなのか。
 でもきっとこれ、世界文学ファンにしてみれば常識的な感想でしょうな。高校生のとき途中で挫折してしまったぼくは、その常識にやっと追いついたというわけだ。これでまたひとつ、長年の宿題を果たせました。来年はがんばりましょう。
(写真は宇和島市天赦園の藤橋。この白玉藤が満開のころ、父が死去)。