ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Iris Murdoch の “The Bell”(3)

 学生時代の夏休みに本書を初めて読んだとき、鐘のことをどう考えたのかはさっぱり記憶にない。ということはおそらく、何も考えなかったような気がする。その意味について思いをめぐらす余裕もなく、ただただ物語の渦中に引き込まれ、とりわけ「ハイライト前後の加速度的な展開」に圧倒され、読みおわって気がついたら夜が明けていた……のではないだろうか。
 けれども今回は、B5の用紙に6枚、小さな字でびっしりメモを取りながら読み進んだ。決していい読み方ではないが、おかげで小説技術の面でいろいろな発見があった。本書が技巧的にいかにすぐれた作品であるかは、雑感で取り上げた具体例によく示されているものと思う。
 で、コマギレに読んでいるうちに、ふと気になってきたのが鐘の意味である。この鐘に意味はあるのだろうか。もしあるとしたら、それは一体どんなものだろう。
 今まできっと、多くの読者がそんな疑問に駆られてきたことと思う。なにしろ本書は、ひとつの描写、それぞれの場面が「予兆、暗示に充ち満ち」た作品である。それなら、鐘もまた何かを象徴しているのかもしれない、と考えたくなってもフシギではない。
 とはいえ、ぼくは唯我独尊、今までどんな説があるのか、ひょっとして定説があるのか、そんなことにはまったく興味がない。学術論文を書くならそういうわけには行かないが、これはただのブログ。気楽なものである。
 というわけで、ふやけた脳ミソを絞ってなんとかたどり着いたのが前々回のレビュー。いかにも自己満足的な解釈だが、まるきり根拠がないわけではない。きょうは一つだけ挙げておこう。(ページはすべて Panther Books 版)。
 二つの鐘をめぐるハイライト・シーンのあと、宗教団体の創設者 Michael はさらに悲しい出来事にあい、こんな心境になる。'The pattern which he had seen in his life had existed only in his own romantic imagination. At the human level there was no pattern. "For as the heavens are higher than the earth, so are my ways higher than your ways, and my thoughts than your thoughts." And as he felt, bitterly, the grimness of these words, he put it to himself: there is a God, but I do not believe in Him.' (p.309)
 こう述懐したあと、彼は尼僧院でひらかれたミサに出席する。'The Mass remained not consoling, not uplifting, but in some way factual. It contained for him no assurance that all would be made well that was not well. It simply existed as a kind of pure reality separate from the weaving of his own thoughts. .... whoever celebrated it, the Mass existed and Michael beside it.' (p.310)
 なるほど、こういう Michael にとっては神もミサも、それから鐘も同じような存在なのではないか。そこでぼくはレビューにこう書いたわけだ。「鐘はなぜ鳴るのか。その音色にはどんな意味があるのか。この問いに答えはない。が、鐘の音を聞いた人の心には、さまざまな思いがよぎったり、何もよぎらなかったりする。神とは人間にとって、そういう鐘のような存在かもしれない。もし本書の鐘に象徴的な意味があるとすれば色々と解釈できそうだが、上の解釈もそのひとつだと思う」。
 むろん、これについては Michael がそれまでどんな人物だったのかなど、さらに詳しく論証しないといけない。が、そうするとネタをかなり割ってしまうことになる。さっぱり根拠らしくない根拠だが、上のくだりを読むと、そういえば鐘もそうだと思える、とだけ述べておこう。
(写真は、宇和島市赤松遊園地にある覗き岩。昔はここから海に飛び込んだものだが、今の子供たちはどうだろうか)。