ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Lauren Groff の “Fates and Furies” (4)

 小説のテーマ的なおもしろさを大ざっぱに分けて、知的昂奮をかきたてるものと、心の琴線に触れるものがある。この二つはもちろん重なる場合もあるが、それをふくめてどちらとも同じスタンスで評価していいのか。両者に優劣はあるのか、ないのか。
 前回提示した問題だが、こんなことを考えてもあまり意味がないかもしれない。要は、おもしろければいいじゃん!
 と自分でも思いつつ、まず「知的昂奮」とは何か。これも定義しにくいが、「目からウロコが落ちるような人生の真実・現実を(改めて)思い知らされ、脳ミソが沸騰するような昂奮」というのはどうでしょうか。この「ような」というのがクセもので、いかにも粗雑な説明だが、ほかにちょっと思いつかない。
 次に「心の琴線に触れる」とはどういうことか。新明解国語辞典(第5版)によると、「各自の心中にあるものに感じて鳴り響く弦に触れることから転じて、読み手や書き手に大きな感動や共鳴を与える」。なるほど、さすがですな。「知的昂奮」のぼくの定義とは大違いだ。
 さて、理想的にはこの二つの要素が絡み合っているのが望ましい。というか、その場合にぼくの評価は高くなる。最近引用した例で言えば、Hemingway の "For Whom the Bell Tolls"。学生時代に読んだきりなので点数はつけたことがないが、最低でも☆☆☆☆★。再読したら★を1つ追加するかもしれない。
 問題は、どちらか一方の傾向が強い場合だ。ちょっと違うが映画で言えば、いわゆる芸術映画と娯楽映画。両者について、ぼくが小説の点数評価をパクった元ネタ、敬愛する故・双葉十三郎の『外国映画ぼくの500本』にこんな記述がある。
 「『難解な芸術映画とお気楽な娯楽映画の評価をどうしておなじ星で表わせるのですか』とよく聞かれる。できるのである。かいつまんで言うと、映画とは、監督や関係者が観客に何かを訴えよう、見せよう、として作るものである。その、何か、が神と人の問題であろうと、刑事と犯人の死闘であろうとおなじことだ。その作ろうとする意図と筋道(つまり作品の性格)にそって、どれだけ完成度が高いかを見ればいいのである」。ぼくはフタバ氏のこの論を頭におきながら小説を読むことが多い。
 が、これを常にそっくりそのまま小説に応用できるとはかぎらない。「ちょっと違う」点を明らかにすると、まず小説は映画と違って、作家が読者ではなく、もっぱら自分のために書いている場合がある。「自分のために」とは、自分がかかえている内的問題を解決するために、という意味である。その問題が作者自身だけでなく、多くの読者の人生にかかわるものであればあるほど、それだけ「知的昂奮をかきたてる」、もしくは「心の琴線に触れる」作品に仕上がるのではないか。ぼくはそう考えている。
 つまり、どれだけ普遍性のあるテーマか。この観点に立てば、二つのタイプの小説に優劣はない。ひるがえって、どちらも「同じスタンスで評価」していい。「できるのである」。
 ううむ、なんだか面倒くさい話になってきましたな。牽強付会、舌足らずな説明には目をつむり、本題の "Fates and Furies" に戻ろう。
 これは要するに、女の「切ない真心」を描いた作品である。英語でいえば sincerity。sincerity とは何か。人はどこまで sincere たりうるのか。そういう問題にまで踏み込んでいれば知的昂奮をかきたてることになるが、本書はそうではない。
 しかし「切ない」。なぜか。ネタを割らない程度に書くと、女が sincere であろうとして、そうなりきれなかったところが「切ない」のである。そこがぼくの心の琴線に触れたのだ。
 もしかしたら sincerity の本質とは、sincere たらんとして、そうなりえない点にあるのかもしれない。「女の悲しい運命」に普遍性を感じるゆえんである。
(写真は宇和島市大超寺。宇和津彦神社の右手、徒歩5分くらい)