ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

J. M. Coetzee の “The Schooldays of Jesus” (3)

 前作 "The Childhood of Jesus" を読んだときは思いおよばなかったが、今回はたまたま今年の初め、Tolstoy の "Childhood, Boyhood, Youth" を再読していたのでふと考えた。「もし草葉の陰でトルストイが本書を読んだとしたら、怒り心頭、投げ出してしまったのではないか」。「倫理や道徳に関する問題への突っ込みが甘い」からである。
 たとえば、Simon と David はこんな問答をする。(S) '.... Is it not better to give than to take?' (D) 'Lions don't give. Tigers don't give.' 'And you want to be a tiger?' 'I don't want to be a tiger. I am just telling you. Tigers aren't bad.' 'Tigers aren't good either. They aren't human, so they are outside goodness and badness.' 'Well, I don't want to be human either.' (p.36)  二人の問答はここで終わる。David が最後に述べた言葉の意味について Simon は Ines と語り合うが、それも尻切れとんぼ。
 さて、これもたまたま今年読んだ本、Andre Alexis の "Fifteen Dogs" に関して、ぼくは George Orwell の "Animal Farm" と比較しながら、こんなことを書いた。(引用はぼくのレビューから)。

 …… 本書の犬たちはアポロ神から人間の知性を授けられた結果、人間の言葉を話すようになる。と同時に、人間のようにものを考えはじめ、やがて「正邪善悪の観念をもち、おのれの正義に従わぬ者を排除し、その殺戮を 'cleansing' として正当化する」。
 いささか図式的ではあるが、「人間だけが正義のために敵を殺す、という動物との違いを端的に示して秀逸」なエピソードだと思う。
 たぶん小学生でも理解できることだろうが、飼い猫が家の中のネズミを捕らえて殺すのは、ネズミがご主人さまの食べ物をくすねる悪いやつだから、といって殺すのではない。猫には正邪善悪の観念はない。
 ところが、人間だけが正義のために闘い、正義のために敵を殺す。テロ、革命、戦争の根底にある本質はすべて同じだ。
 とそう書いたとたん、いや、革命は正しいが、戦争は正しくない、という反論が返ってきそうだが、その反論自体、正邪善悪の観念にもとづくものである。そういう観念、正義感に発して殺戮が始まり、「その殺戮を 'cleansing' として正当化する」。「そこに人間と動物の違い、人間の人間であるゆえんが読み取れる」。……

 拙文からの長い引用で恐縮だが、上の Simon と David の問答がいかに上滑りなものか、これで十分納得できるだろう。「突っ込みが甘い」どころか、まったく突っ込んでいないと言うほうが正しい。善悪の問題を提示しながら上滑りに終わるとは何ごとか!と、猛烈な理想主義者ゆえに善悪の問題に敏感だったトルストイなら、怒り心頭に発したのではないか、と想像するゆえんである。
(写真は、宇和島市泰平寺の下手、神田(じんでん)川にかかる佐伯橋)