ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Paul Auster の “4321”(2)

 前回レビューらしきものを書いたあと、本書に関する周辺情報をネットで斜め読みしたが、ソースはどれもメジャーなものばかり。こんなマイナーなブログで改めて紹介するまでもない。
 そこで何より「書をして語らしめよ」。というのはキザなセリフですな。実際は唯我独尊、あくまでも本の内容だけで、少しばかり落ち穂拾いをしておこう。
 まず、雑感にも書いたが序盤はとてもおもしろい。とりわけ、ぼくのように何の予備知識もないほうが楽しめる。死んだはずの人間が生き返ったり、生きていてもべつの人生を送っていたり、これは一体どういうことなんだろう、と興味津々。
 次に中盤。相変わらずおもしろいが、「4とおりの人生」のパターンがそれなりに見えてきて、その必然性が気になるところ。単なる思いつきではないことは、みっちり書き込まれている点からよくわかる。読み続けても損はないと判断。
 そして終盤。「本書はいわば神のごとき立場から、人生の描写について人間の認識の限界を超えようとする包括的な試みなのかもしれない」と雑感に書いたが、いま思うと深読みのような気もする。なのでレビューではカット。
 一方、「"4321" とは、時間の逆行を意味しているのかもしれない」という推測は勘違いでした。幕切れ近く、p.863にタイトルの意味が紹介されている。
 それを読むと、「なぜパラレル・ワールドか?」という「ミもフタもない疑問」も氷解。たしかに「歴とした必然性があり、仮想現実とフィクションがごく自然に融合している」点は大いに評価できる。
 が、中盤から感じていた物足りなさは最後まで残った。「幼い少年だった Ferguson が家庭や学校でさまざまな事件に出会いながら少しずつ成長し、いまやコロンビア大学、もしくはプリンストン大学の学生。はたまたパリでフランス語を勉強中。あるいは…といった具合に4とおりの人生を歩んでいる」。
 その「4とおりの人生」にたいした違いがない、という点が物足りないのである。What if he had gone to Columbia instead of Princeton? And if he had gone there, how would his life have been different from the one he was leading now?(p.839)
 もちろん現象的には大きな違いがある。両親が離婚するかどうか、恋人と別れるかどうか、そういうことが人生に重大な影響を及ぼすこともたしかだ。
 けれども、「酷評すれば4人(の Ferguson)とも似たり寄ったり」。コロンビアだろうとプリンストンだろうと、東洋の島国からながめると、べつにどっちでもいいだろ、と言いたくなる。東大でも京大でも、アメリカ人からすれば、それがどうした、というようなものだ。
 おっと、これは冗談。本質的な問題に戻ると、4人が「それぞれ異なる人生観・世界観を有して内的・精神的に対立しているわけではない」。だから「たいした違いがない」。この点、はたしてぼくの読みどおりかどうか、未読の方はぜひお確かめください。
 ともあれ、ぼくは上に書いたような事情で途中から胃にもたれ、分厚いハードカバーを持ち運ぶのにますます腕が疲れ、おかげで読み通すのに1ヵ月近くもかかってしまった。
 そういえば先ほど、Jesmyn Ward の "Sing, Unburied, Sing" が今年の全米図書賞を受賞したというニュースが飛び込んできたが、この "4321" はロングリストにも入選しなかった。それなのにブッカー賞では最終候補作。最近の英文学はよほど不作ということなんでしょうか。
(写真は、宇和島市妙典寺前地区。昔は畑や田んぼが広がり、ところどころに貧乏長屋やボロ家、豚小屋などが建っていた。今は亡きいとこの住んでいた長屋も中ほどにあり、ぼくはいとこと一緒にこのあたりで遊びまわったものだ)