ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Melanie Dobson の “Chateau of Secrets”(2)

 これはまさしく通勤快読本。ほんとにおもしろかった! 残念なのは、諸般の事情でコマギレにしか読めなかったこと。それでもクイクイ度(クイクイ読める度合い)は抜群だったのだから、できれば一気に読みたかった。
 だから点数も、久しぶりに☆☆☆★★★(約75点)。「決して深い内容ではない」ところを減点しただけだ。適度に類型的とならざるをえない文芸エンタテインメントとしては、☆☆☆★★★はほぼ満点と言ってよい。
 この採点方式についてはいままで何度も書いたが、故・双葉十三郎氏の『西洋シネマ体系 ぼくの採点表』がパクリ元。その抜粋版『外国映画ぼくの500本』(文春新書)で、フタバさんはこう述べている。
 「難解な芸術映画とお気楽な娯楽映画の評価をどうしておなじ星で表せるのですか」とよく聞かれる。できるのである。かいつまんで言うと、映画とは、監督や関係者が観客に何かを訴えよう、見せよう、として作るものである。(中略)その作ろうとする意図と筋道(つまり作品の性格)にそって、どれだけ完成度が高いかを見ればいいのである。
 ぼくも自分が読んだ本を採点するとき、だいたい同じような見方から考えることが多い。が、異なる点もある。フタバさんの言葉を続けよう。
 ……監督の思想やもくろみがどれほど深く、高くてもそれだけではダメで、広い意味での技術、技法の完成度も高くなければならない。
 たしかに映画の場合はそのとおりだろうが、文学の場合、作家の「思想やもくろみ」が高いか低いか、深いか浅いかは、その作品を評価するうえで相当に重要なファクターのひとつである。と、少なくともぼくはそう考えている。
 もちろん眼高手低はよくない。が、それとは逆に、「眼低手高」も文学作品としては、あまりいただけない。どんなに完成度は高くても、人生の厄介な問題、たとえば善悪や実存の問題などを素通りしたものだと、あるいは突っ込みが甘いと、それほど心に残らない。
 その点、"Chateau of Secrets" を上のような自己流文学観からながめると、「眼はやや高い、手は非常に高い」。だから「上質の文芸エンタテインメント」なのである。
 これを具体的に説明するには、ちと時間がかかる。きょうはおしまい。
(写真は、宇和島市神田川(じんでんがわ)にかかる勧進橋。上は貧乏長屋があった側。下は、子供のころのぼくには橋向こうのほぼ別世界。一人で行くのは、左側にあった貸本屋さんまでだった)