ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “The Book of Form & Emptiness”(3)

 Diana Krall の "Wallflower"(2015)にハマっている。

WALLFLOWER

 今月から歌手のアルファベット順にジャズボーカルを聴きはじめたのだけど(たしか三巡目)、Billie Holiday, Carmen McRae などやっぱりいいなあと思っているうちに Diana Krall。昔から好きな歌手だが、"Californifa Dreamin'" や "Desperado" などのスタンダード・ナンバーを集めた "Wallflower" を繰り返しなんども聴くのは初めてだ。往年の青江三奈藤圭子とはまたひと味ちがったハスキーボイスに、脳の奥がシビれる。ぼくが男だから? 女のひとでもシビれるのでしょうか。
 そこでふと思ったのだが、クラシックではハスキーボイスの歌手っているのかな。『魔笛』のアリアなんてハスキーじゃぜったいムリでしょ。ひるがえって、澄み切った声でジャズボーカルというのも違和感がある。そのへんがジャズとクラシックのちがいのひとつだろうか。
 と、ジャズ三年生の無駄口はそれくらいにして表題作。今回もやはり、Ruth Ozeki の旧作 "A Tale for the Time Being"(2013 ☆☆☆★★★)の復習からはじめないといけない。戦争の問題にかんして「〈正義の多元性〉という視点がいささか欠けている」、人間観・歴史観が「やや一面的で図式的」とは、具体的にはどういうことなのか。
 それについては、じつは同書の落ち穂ひろいで詳述している。

 だからここでは要点だけにとどめておこう。「戦争もテロも、異なる正義や価値観の衝突がもたらす運命の悲劇であり、まさしく多元宇宙の所産である」。Ruth Ozeki は、どうやらそうした悲劇的な人間観・歴史観の持ち主ではないらしい。そこがぼくには不満なのだ。
 その戦争のなかにはもちろん太平洋戦争もふくまれる。「こう書くと、お前は戦争を肯定するのか、侵略戦争を正当化するのかという罵詈讒謗を浴びそうだが、否定でなければ肯定、肯定でなければ否定、という単純な一元論こそ戦争を生みだすものだ、とあらかじめ反論しておこう。そういう一元論は相手の言論を、存在を圧殺する全体主義の発想である」。
 ただ、正義の多元性というだけで問題が解決するわけではない。これについては、Tayeb Salih の "Season of Migration to the North"(1966, 英訳1969 ☆☆☆☆★)と、その落ち穂ひろいで述べたことがある。

 多元論だけでは「変化と流動のみを是とする相対主義」、ひいては日和見主義に堕してしまう恐れがある。福田恆存のいうとおり、「さういふ相対主義では、人間は生きられないはずだ。個人の生涯にも、それでは切りぬけられない、ごまかしきれない時期がくるものだ。いや、それが実際に来なくても、それをたえず感じてゐるのが、ほんたうの生きかたでせう」。
 いいかえれば、人生には必ず、ぎりぎりの選択を迫られることがある。ぼくは前回、ウクライナ問題にしても「基本的な立場に発する見解の相違が多々ある」と書いたけれど、現実に血を流している人びとが聞いたら、なにをノンビリ寝言いってるんだいと思うはずだ。殺すか、殺されるか、というときに、どっちもどっち、というのはありえない。
 もちろん作家は作品のなかでどんな主張を述べてもいい。ただ、その主張が「ぎりぎりの選択」の結果かどうか、「単純な一元論」によるものかどうか。ぼくはそこが評価の大きなポイントだと思っている。"A Tale for the Time Being" にしても、"The Book of Form & Emptiness" にしても、Ruth Ozeki はその点がイマイチですな。(この項つづく)