2013年のフランク・オコナー国際短編賞受賞作、David Constantine の "Tea at the Midland and Other Stories"(2012)の続きを1日1話ずつ読んでいたら、きょう、Tsitsi Dangarembga の "This Mournable Body"(2018)が届いた。さみだれ式に注文した今年のブッカー賞最終候補作4冊目である。
さっそく取りかかったが、ジンバブエの首都ハラレに住む若い女性が主人公のせいか、前期高齢者のぼくにはいまのところ、あまり惹かれるものがない。少なくとも、クイクイ読めるほどには面白くない。
ということで、今回も現地ファンよろしく同賞候補作を格付けしてみると、
1. Shuggie Bain
2. The Shadow King
3. Burnt Sugar
4.
5.
6.
なんだかあちらのランキングを追認しているようで、われながら、まったく芸がない。"This Mournable Body" が途中から俄然、盛り上がるのを期待するばかりだ。
注釈をつけておこう。既読3作品とも評価は☆☆☆★★★だが、☆は約20点、★は約5点という映画評論家、故・双葉十三郎氏の採点法に準拠しているので、それぞれアバウトな差がある。
まず "Burnt Sugar" から。これはタイトルにかかわる状況設定が斬新。その点だけで★をひとつオマケした。
つぎに "The Shadow King"。おなじくタイトルがらみの設定が、斬新とまでは言えないにしても面白い。ぼくはいままで知らなかったが、同書はケイシー・シモンズ監督作品として映画化が決定しているそうだ。たしかに原作も派手なアクション・シーンがふんだんにあり、物語性という点では3作のうちピカイチ。それが加点の理由だが、さすがハリウッド、目のつけどころがちがいますな。
ただ、映像では表現しにくい要素が消えてしまいそうな恐れもある。たとえばゲリラ軍の女性兵士ヒルトとイタリア軍従軍カメラマン、エットレの対峙など、ベルイマンのような撮り方(顔の超アップなど)ならじゅうぶん陰翳に富んだものになるはずだが、軽い扱いやカットの憂き目にあうようだと、ほかにも主要人物に人間としての陰翳があった原作の持ち味が薄れてしまうかもしれない。
といっても、原作そのものも「人間としての陰翳」をさほど深く追求した作品ではなく、そこがもの足りない。
その点、"Shuggie Bain" はどの人物も型どおりといえば型どおりながら、その型を誇張したような役づくりや、それぞれの役どころをうまく活かした会話やエピソードが、端役がらみのものまで面白かった。ありていに言えば、「どの細部もよく書けている」。だから、各人の人間的な陰翳はほぼステロタイプなのに、それがまったく気にならない。
主人公の少年 Shuggie Bain にしても、彼自身、He felt something was wrong. Something inside him felt put together incorrectly.(p.161)とか、he .... knew he would never feel quite like a normal boy.(p.393)と自覚している「あのタイプ」だけに、近所の子どもや同級生、はては教師にもさんざんイジメられる。つまり、そのタイプが「ノーマルでない」と認めつつ、そうした人間への攻撃をマイナスのものとしてリアルに描く。作者 Douglas Stuart 自身のバランス感覚、作家としての守備範囲の広さを物語る証左ではないかと思う。
ともあれ、Shuggie Bain は「ノーマルでない」がゆえに、母親 Agness と演じる「およそ信じがたい一幕」も可能となっている。ネタは割れないが、けっこうヤバイ、きわどい描写もあるのに、さもありなん、と受け容れてしまう。このあたり、病気の親との接し方において、たまたま "Burnt Sugar" と好対照となっている点が面白い。涙ぐましい努力をつづける Shuggie Bain、自分のエゴとの葛藤に苦しむ Antara、どちらも小説のキャラとして説得力がある。小説とはまことに奥が深いもの、とあらためて実感した次第だ。
(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)