ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Maaza Mengiste の “The Shadow King”(2)

 先日、やっと Douglas Stuart の "Shuggie Bain"(2020)が手元に届いた。さっそく読みはじめたが、期待にたがわず面白い。ご存じ今年のブッカー賞ならびに全米図書賞最終候補作である。史上初の二冠達成か、と現地ファンのあいだでは大変な評判になっている。
 とりあえずブッカー賞に話を絞ると、同書は既報どおりロングリストの発表以前から有力視されていた。それが実際、同リスト、ショートリストと勝ちあがり、いまも下馬評で1番人気。
 まだ途中だけど、人気の理由はなんとなくわかる。どの細部もよく書けているからだ。たとえば、いま読んでいるところから振り返って、明らかに本筋ではないと思われるくだりでも、人物同士の会話が楽しく、それぞれの性格がくっきり浮かびあがってくる。この点から判断するかぎり、ぼくがこれまで読んだ今年の候補作のなかでは同書が頭ひとつ抜けているような気がする。
 そこで現地ファンふうに暫定的な格付けをしておくと、
1.
2. The Shadow King
3. Burnt Sugar
4.
5.
6.
 なんだ、あちらのランキングのコピペじゃないか、と嗤われそうだけど、正直な感想なので変えようがない。このトップに下馬評どおり、"Shuggie Bain" が入りそうなのだ。
 閑話休題。"The Shadow King" は "Shuggie Bain" とちがって、いくつか疑問に思う箇所があった。最たる例は、何回か出てくる Chorus と題された章。古代ギリシア劇のコロスとおなじ働きをするもの、と解釈したいところだか、Wiki によれば、「コロスは観客に対して、観賞の助けとなる劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈し、観客がどう劇に反応するのが理想的かを教える。また、劇中の一般大衆の代弁をすることもある。多くの古代ギリシア劇の中で、コロスは登場人物が劇中語れなかったこと(恐怖、秘密など)を代弁する」。
 ところが "The Shadow King" の場合、Chorus はそれほど重要な役割を担っていないのでは、と思うのだがどうだろう。ネタを割らずに説明するのがむずかしいので説得力のない愚見だけど。
 ひとつ言えるのは、本書の登場人物は Chorus の助けを借りるまでもなく、自分の口で自分の心情を吐露している。それだけに Chorus の位置づけが、ぼくにはピンと来なかった。インタビュー記事かなにかで、作者自身が解説しているかもしれない。
 おなじく隔靴掻痒の話になるが、タイトルの the Shadow King は単数形ゆえに、明らかに「影武者」を指している(p.232)。それがなんと、終幕では the Shadow Kings となっている(p.423)。つまり、「実際には複数の影が存在する」わけだ。
 King, Kings が具体的に何者かは、本書の根幹にかかわる点なので読んでのお楽しみ。物語としてとても面白いことだけはたしかだ。
 ただ、不満がないわけではない。「歴史の、人間の光と影という問題に深く踏み込んだ作品とは言いがたい」のが、ぼくにはいちばん引っかかった。なるほど深い意味を汲み取れそうな文言はある。前々回に引用した .... every visible body is surrounded by light and shade. We move through this world always pulled between the two.(p.287)のほか、Every sun creates a shadow and not all are blest to stand in the light.(p.402)も一例。
 ところが、それがいっこうに上の「根幹にかかわる点」に結びつかない。ぼくはたまたま今年の7月、Peter Matthiessen の "The Shadow Country"(2008 ☆☆☆★★★)を読んだあと、レビューにこうしるした。「国家の、あるいは人間の光と影とは、少なくとも西欧の場合、いかに在るべきか生きるべきか、という正義のもたらす功罪にかかわっている」。この問題に上の第2例など直結しそうなのに、実際はそこまで発展しない。どんな問題でも、えてして入口だけで終わってしまうのは現代文学の通弊のような気がする。

(下は、きょう米アマゾンから届いたブルーレイ。『裏窓』『めまい』『サイコ』『鳥』の4本セット。どれだけ画質が向上しているか楽しみだ)