ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Shehan Karunatilaka の “The Seven Moons of Maali Almeida”(5)

 表題作と "Treacle Walker" の比較をつづけよう。前回(4)では、そこにカオスがあるだけという小説よりも、カオスをなんとか収拾しようとする動きのあるほうを高く評価すべきだと述べた。
 収拾だけでなく、カオスからの脱出の試みもあればさらにいい。煩悶や葛藤が生まれ、それが感動を呼び、物語的にも変化に富んだドラマが展開される。そんな要素がいっさいないのが "Treacle Walker" であり、この点だけ見ても "Seven Moons .... " のほうがすぐれているのは明らかだろう。
 つぎに、"Seven Moons .... " におけるカオスは人間(とその亡霊)がもたらしているのにたいし、"Treacle Walker" ではカオスの原因がはっきりしていない。それはどうやら、世界的ベストセラー『時間は存在しない』で有名なイタリアの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリの理論にもとづいているようなのだが、その真偽のほどはともかく、現実とはそういうものだとしか書かれていない。これではどうにも共感しようがない。
 "Treacle Walker" のある登場人物は、"What is out is in. What is in is out.' と述べている(p.79)。これからすぐに連想されるのは、"Macbeth" の冒頭に出てくるあの三人の魔女たちの有名なせりふ、'Fair is foul, and foul is fair.' 「きれいは穢い、穢いはきれい」(福田恆存訳)。
 昔はこれ、なんのことやら見当もつかなかったが、いまでは正義の相対性の比喩だと思っている。川の両岸で正義と不正義がいれかわるという、本ブログでもたびたび引用してきたパスカル箴言と軌を一にするものだ。最近の実例でいえば、解放が侵略であり、侵略が解放である、という奇妙な現実である。つまり、カオスだ。
 とそう連想したからといって、"Treacle Walker" のカオスの正体が見えるわけではない。いやいや、人間存在そのものがカオスなのだ。カオスの正体が見えないのは、人間の正体が不明ということなのだ。そう考えればいちおう納得できるのだけれど、その路線なら村上春樹森見登美彦のほうがおもしろい。ドラマがあるからだ。
 というわけで、"Seven Moons .... " と "Treacle Walker" の勝負、人間ドラマの有無という点で "Seven Moons .... " の勝ち。なんだか相撲の取組みたいですな。
 ともあれ、"Seven Moons .... " を読むと、戦争や政治的混乱などのカオスを文学的に表現するには、マジックリアリズムは最適の技法のひとつだと実感される。少なくとも現代文学では、マジックリアリズムは不条理な政治の現実から生みだされるものとさえいえるかもしれない。(村上や森見については、またべつの機会に考えてみよう)。
 それにしても、いつまでロシアとウクライナの「きれいは穢い、穢いはきれい」はつづくのだろうか。原因ははっきりしているのだけれど。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。前回、新ウィーン楽派の音楽は毎日聴けたものじゃない、と書いたけれど、シェーンベルクの『浄められた夜』は昔から好きだ。今回ひさしぶりに聴いたところ、カラヤン、ラサール四重奏団のものもよかったが、いちばん心を惹かれたのはこのヤンセン盤だった)

Schubert/Schoenberg: String Qu