ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “The Book of Form & Emptiness”(6)

 前回(5)からずいぶん間があいてしまった。簡単におさらいをしておこう。日系アメリカ人の少年 Benny は父親 Kenji の死後、いろいろな「ものの声」が聴こえるようになり、ある夜、図書館の製本室で the Book にこう告げられる。... you encountered all that was and ever could be: form and emptiness, and the absence of form and emptiness. You felt what it was to open completely, to merge with matter and let everything in.(p.454)
 これが第三部の結びで、つづく第四部の冒頭にも本書のタイトルに直結するくだりがある。One day, when I was serving tea to my teacher, the teacup slipped off the tray and fell to the floor. ... / I cried out when it hit the floor. My teacher looked up from his book and nodded, "Already broken," he said and went back to his reading./ I was confused. The teacup wasn't already broken, and thankfully, it survived the fall to the floor. I picked it up and examined it, and not finding a single chip or a crack, I washed it and brought it back and carefully served my teacher his tea./ "Hojo-san," I said, putting down my own cup. "Your teacup didn't break. Why did you say it was already broken?"/ ... I was determined to get an answer. He was reading the nun's poem on the side of the cup./ "The world's dust, swept aside here in my hermitage, I have all I need, the wind in the pines―"/ "But Hojo-san! The teacup isn't broken!"/ He looked up, surprised. "To me, it is," he said. "It is the nature of a teacup to be broken. That is why it is so beautiful now, and why I appreciate it when I can still drink from it." ... "When it is gone, it is gone."/ That day, my teacher gave me a priceless lesson in the imperfectness of form, and the empty nature of all things."(pp.457-458)
 フーッ、長すぎる。さいごのワンセンテンスだけ引用しようかとも思ったのだけど、それにいたる過程も添えたほうが、やはりわかりやすいだろう。
 上の I は、日本人の尼僧 Aikon で、自著 "Tidy Magic" のなかで修業時代の経験を綴っている。この本にはモデルがあり、Marie Kondo の "The Life-Changing Magic of Tidying Up: The Japanese Art of Decluttering and Organizing"(2014)。現在、アマゾンUSの Zen Philosophy 部門でベストセラー1位になっている。

The Life-Changing Magic of Tidying Up: The Japanese Art of Decluttering and Organizing (The Life Changing Magic of Tidying Up) (English Edition)

 ぼくはもちろん未読だし、Marie Kondo のことも Wiki の記事しか知らない。ゆえに Aikon のモデルといい切っていいかどうか怪しいものだが、べつに勘ちがいでもかまわない。(上の茶碗のエピソードはたぶん Ruth Ozeki の創作だろう)。
 ポイントはこうだ。Benny の母 Annabelle は夫 Kenji の死にたいへんなショックをおぼえ、それに Benny との断絶・すれちがいや、失業などが重なり、アパートのなかはゴミ屋敷状態。その整理整頓に着手すべく、全米ベストセラーのマニュアル本 "Tidy Magic" の著者 Aikon に接触を試みる。そこでいわば劇中劇のかたちで、同書の内容がときどき表題作のなかで紹介される。メタフィクション的なややこしい構成だ。
 ここで上の the imperfectness of form, and the empty nature of all things にもどる。これと前回の form and emptiness, and the absence of form and emptiness を合わせれば、要するに「かたちのはかなさと、あらゆるもののむなしさ」ということではないかしらん。どうでしょうか。
 ともあれ、そこで思い出されるのが『平家物語』の有名な冒頭の一節。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」。
 本居宣長の『紫文要領』にもこうしるされている。「歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり」。
 これまた有名な宣長の『源氏物語』論だが、宣長や『源氏物語』、『平家物語』と Zen Philosopy との関係について論じる力は、ぼくにはとうていない。なのにどうして日本の古典を引用したかというと、「かたちのはかなさと、あらゆるもののむなしさ」なんて、日本人にとっては大昔からおなじみのテーマであって、べつにいまさら「ややこしい構成」で読まされるほどのことでもない。茶碗が割れているのかいないのか、そんなこともどうでもいい。だけどアメリカの読者なら、そこに深遠な意味を見いだしているのかな。とまあ、そんなことを考えたわけです。
 と、ここまで駄文を綴ってきて、じつはあともう一回落ち穂ひろいをしないと、以下の結論が唐突に思えることに気がついた。しかしもう、くたびれました。拙文を引いて、脱兎のごとくおしまいにしましょう。

 本書の進行係もつとめる「本」はベニーに「かたちのなさと、むなしさ」という存在の本質を教え、アナベルが心の救いを求めた日本の禅僧アイコンもその著書で、「かたちのはかなさと、あらゆるもののむなしさ」を説く。これが結果的にアナベルとベニー親子の悟りへとつながり、ふたりはケンジの死によるショックから立ち直る。と解釈しなければ、本書の「かたちとむなしさ」理論やメタフィクションマジックリアリズムは意味がない。この読みが正しいとして、トラウマとその克服という平凡なテーマを、よくぞここまで超絶的な作品に仕上げたものと感心する。ゆえに高く評価したいところだが、日常と非日常のパターンが見えたところで飽きてしまい減点した。