ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “The Book of Form & Emptiness”(2)

 まったくノリがわるいまま、おそらく今季最大の話題作 "Demon Copperhead"(2022)を読みはじめた。刊行年からして、今年の全米批評家協会賞の対象だったはずだが、最終候補作にもなっていない。だから、というわけではないけれど、「ノリがわるい」のもむべなるかな。なんで超話題作なのか、いまのところ、わからない。
 まだほんの序盤だが、表題作と同じくらいの出来(☆☆☆★★)だろうか。ある一点を除けば、フツーのホームドラマおよび青春小説というところも同書と似ている。
 その一点については次回あたりに述べるとして、表題作の場合はこうだ。「本がひとに語りかけ、ひともまた本に語りかける。こうしたメタフィクション的な対話がなければ、本書はほとんどふつうのホームドラマ、そして青春小説である」。
 その復習をはじめる前に、看板に偽りありだけど、きょうはひとまず、Ruth Ozeki の旧作 "A Tale for the Time Being"(2013 ☆☆☆★★★)をふりかえるだけにしておこう。ご存じ2013年のブッカー賞最終候補作である。

 じつは最近、ぼくは工藤美代子の『山本五十六の生涯』を読みおえたばかり。一ヵ月以上もかかった。文庫版のあとがきの結びに、工藤はこう書いている。「平和を唱えていれば永遠に平和が続くと信じている日本人が多い今の世の中で、山本五十六がいかに戦争回避のために戦ったかを知ってもらえたら、これ以上の喜びはない」。

山本五十六の生涯 (幻冬舎文庫)

 その名将・山本五十六がじつは、「大局観のない、かつ読みの甘い偏った発想」ゆえに「取り返しのつかない亡国の大罪」を犯した「迷将」だったという説がある。
 この林千勝説が正しいのか、それとも、山本五十六が「戦争回避のために戦った」悲劇の提督であるという従来の定説が正しいのか、ぼくはまだ関連書籍をちょっと読んだだけなので、なんともいえない。
 ただ、ひとりの軍人の評価でさえ二分しているのに、まして対象が戦争そのものとなると、歴史観や世界観など、基本的な立場に発する見解の相違が多々あるのではないか。それが現実であり、常識だろう。直近のウクライナ問題だってそうだ。
 ところが、"A Tale for the Time Being" では、せっかく「量子力学の立場から多元宇宙」の話題で興味をつないでおきながら、こと戦争のこととなると「〈正義の多元性〉という視点がいささか欠けている」。「ナオやルースなど中心人物が陰翳豊かに造形されているのにたいし、肝腎の人間観・歴史観のほうはやや一面的で図式的」。ゆえに減点せざるをえなかった。
 この "The Book of Form & Emptiness" についても、ほぼ同じことがいえる。固有名詞こそ出てこないものの、明らかにトランプ大統領誕生当時の市民のようすが描かれるのだけど、ぼくはそれを読むたびに白けた。たしかあの選挙は、ほぼ拮抗する結果だったはずだし、彼が落選したときもそうだった。それなのに、どうしてこの本では反トランプ派の人びとしか出てこないのだろう。(この項つづく)