ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “The Book of Form & Emptiness”(4)

 きのう、いよいよ腰をいれて "Demon Copperhead"(2022)を読もうとした矢先、まさかの雪隠づめ。ちょっと用を足すつもりが、なんと三時間以上もかかってようやく脱出できた。
 この「雪隠づめ」ということば、三軒先に住んでいるドラ息子夫婦にはピンとこなかった。もはや死語なのか。
 奈良の明日香村、高松塚古墳の近くに、「鬼の雪隠」という花崗岩の石造物がある。同古墳にはなんどか足を運んだことがあり、その帰りに見かけたのがこの雪隠。(写真は Wiki に掲載)

 わが家はボロ屋。以前からトイレの鍵のぐあいがわるいのを放置しておいたのがいけなかった。鍵屋さんを呼んでドアがあくまで雪隠づめ。夜なかに鬼の雪隠に閉じこめられたらさぞコワかったろうな、と思ったものだ。
 雪隠といえば、川端康成ショートショートにも『雪隠成仏』という作品がある。脱出後、ふと思い出して読みかえしてみたけれど、ぼくと同じような事情で孤独死にいたったケースもあるかもしれない。今回はたまたま家人も在宅中だったので事なきを得たが、これからも万一にそなえ、家のなかでもスマホは常時携帯しておくべきだと痛感した。
 それにしても、災難はいつ降りかかってくるかわからない。だから人生は恐ろしいし、こんどの雪隠事件のように、さいわい大事にいたらなかった場合は、おもしろいともいえる。小説にしても、大なり小なり災難がなければ成り立ちにくいし、つまらないのではないか。
 表題作では、日系アメリカ人の少年 Benny の父 Kenji がある日突然、交通事故死。すべてはそこからはじまった、ともいえる。So, start with the voices, then./ When did he [Benny] first hear them?/ ... So, perhaps the voices started around then, too, shortly after Kenny died? It was a car accident that killed him―no, it was a truck. Kenny Oh was a jazz clarinetist, but his real name was Kenji, so we'll call him that.(p.7)
 この Benny がいろいろな「ものの声」を耳にし、やがてそれに「本の声」が加わり、Benny と the Book の対話がはじまる、という設定はなかなか魅力的だし、物語的にも当初は相当な推進力がある。
 それが途中で失速するのにはいくつか理由があるが、前回(3)からの流れでいうと、Benny とその母 Annabelle を取り巻く状況の説明に疑問をおぼえたのもひとつ。There was anger in the air. Outrage and confusion. Disbelief. ... the protesters surged through the streets, blocking traffic and chanting as the car horns blared./ The PEOPLE, UNITED, will never be DEFEATED!/ ... SHOW me what democracy looks like! This is what democracy looks like!/ "Fuck democracy!"/ ... NO JUSTICE ... no PEACE!(pp.436-437)固有名詞こそ出てこないものの、トランプ氏が2016年の大統領選挙で勝利した直後の街のようすであることは前後の展開から明らかだ。
 ぼくはこれを読み、実際そうだったんだろうなと思いつつ、あれはたしか接戦じゃなかったっけ、とも思い Wiki を調べてみると、「得票数ではクリントンがトランプを上回っていたが、(中略)選挙人獲得数ではトランプがクリントンを上回り、トランプの勝利が確定した」。まあやっぱり、接戦だったのではないだろうか。
 ぼくはべつにトランプ派でもクリントン派でもないしバイデン派でもない。アメリカの大統領なんて、日本の国益にかなう人物でありさえすれば、だれでもいいと思っている。ただし、その国益をどうとらえるかが問題で、そもそも国益なんてどうでもいいといわんばかりの政治家が多い印象をうけるし、大半の国民もまた無関心かもしれない。じっさい、ぼく自身はどうなのか、と自分で自分にツッコミをいれてみると、答えは、かなり怪しい。
 いかん、脱線してしまった。上の引用箇所とその類例にもどると、接戦だったはずの選挙結果からして、ぼくはこう思った。「どうしてこの本では反トランプ派の人びとしか出てこないのだろう」。
 もちろん、こうした当時の五割近い市民レヴェルの政治状況は、上の Benny と the Book との対話というメタフィクション的な設定とは、たぶん直接関係がないだろう。ただぼくは、Ruth Ozeki の人間観・世界観が「ぎりぎりの選択」ではなく、「単純な一元論」を反映したものでないか、という旧作 "A Tale for the Time Being"(2013 ☆☆☆★★★)を読んだときの疑問を思い出した。そこで、前回まで同書を復習したというしだいです。(この項つづく)