ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “The Book of Form & Emptiness”(5)

 先週末の夜、横浜野毛のジャズスポット〈DOLPHY〉でもよおされた、野力奏一(P)と本多俊之(S)のコンサートを聴きにいった。

 ジャズの生演奏を聴くのは二回目。いつだったか、東京の〈BLUE NOTE〉でナベサダを聴いて以来だ。二回ともドラ娘の企画で、よろず腰の重いぼくは自分でコンサートに行こうと思ったことがない。あ、でも大昔、宇野功芳の第九を聴きにいったっけ。
 ともあれ、すぐ近くから流れてくるピアノとサックスの音は強烈で、脳の奥まで響きわたった。また生で聴きたいなと思ったけど、野毛まで出かけるのはちと面倒くさい。と二の足を踏まないのが、ほんとのジャズファンなんだろな。
 演奏中、本多が即興のように自由気ままに吹いているようで、じつはちゃんとリズムを刻んでいることを発見。表題作に引っかけていえば、the performance of form & fullness か。
 form and emptiness のほうは、つぎのくだりが初出のはずだ。All things you saw and felt at once. How is this possible? Because in the Bindery, where phenomena are still Unbound, stories have not yet learned to behave in a linear fashion, and all the myriad things of the world are simultaneously emergent, occurring in the same present moment, conterminous with you. ... In this Unbound state that night you encountered all that was and ever could be: form and emptiness, and the absence of form and emptiness. You felt what it was to open completely, to merge with matter and let everything in.(p.454)
 日系アメリカ人の少年 Benny は父の死後、いろいろな「ものの声」が聴こえるようになり、やがてそれに「本の声」も参加、Benny と the Book の対話がはじまる。上はその一例で、ある夜、図書館の製本室で Benny が体験した出来ごとを、the Book が Benny に語りかけるかたちで報告している。
 なぜ Benny が夜の図書館にいるのか、といった背景説明はたぶん不要なのでカット。ぼくはこの箇所を踏まえ、「本書の進行係もつとめる『本』はベニーに『かたちのなさと、むなしさ』という存在の本質を教え」た、と要約したけれど、あながち的はずれでもないだろう。
 この form and emptiness にかんする記述はもう一箇所ある。それを引用すると長くなるのできょうは尻切れトンボだが、上のくだりだけでも、あらゆるもののはかなさ、むなしさというテーマが見えてくるのでないか。
 その平凡なテーマを「本と人間との対話」という一種メタフィクション的な技法で展開しているところが目新しい。それを得点アップにつなげるかどうかは読者の立場しだいですな。(この項つづく)