ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

D. H. Lawrence の “Aaron's Rod”(1)

 D. H. Lawrence の "Aaron's Rod" を読了。ロレンス7作目の長編(22)で、彼の恋愛哲学、人間観が色濃く打ちだされた問題作だと思う。

Aaron's Rod: Cambridge Lawrence Edition; Revised (Classic, 20th-Century, Penguin)

Aaron's Rod: Cambridge Lawrence Edition; Revised (Classic, 20th-Century, Penguin)

[☆☆☆☆] 男女の恋愛というと、日本人にはホレたハレたのたぐいに過ぎないが、ロレンスの場合はもうまるで次元が違う。人間存在の根源にある魂の問題として、人は愛において個人たりうるのか、そもそも人は愛しあえるのか、と訴えかけてくるからだ。こう書くと本書は何やら観念的な小説のようだし、事実、後半ほど哲学論議が活発にかわされる。が当初、主人公の男が住むイギリスの小さな炭坑町、男が家を飛び出して向かったロンドン、さらには旅先のイタリアと場面は変わっても、男が周囲の人物とかわすのはにぎやかな雑談ばかり。明らかに観光小説的な側面を持つイタリア篇では、時に脱線が過ぎるのではと思えるほどだ。しかし話はめぐりめぐって本質論が始まる。男はなぜ妻子を捨てたのか。行きずりの女に恋をしたあと自己嫌悪におちいったのはなぜか。男自身の述懐と、ロンドンで知りあった作家との対話が重要である。愛が自己犠牲を要するなら、愛とは自己の死にほかならない。愛は相手の心を支配しようとする戦いだ。自分が自分でありながら、同時に相手と一体になることはついに不可能なのか。こんな発言や問答を生みだす文化は日本には存在しない。これはやはり、神の愛、キリストの愛という絶対的な愛の洗礼を受け、そこから人間の愛の本質について考えざるをえなかった文化の小説である。自己を保とうして「愛の強制」を逃れた男が、イタリアで不死鳥のように愛をよみがえらせ侯爵夫人と関係する。このあたり、ロレンスならではの詩的表現にあふれ、火花の散るような英語だ。愛を魂の問題、内面検証の一環としてとらえ、人がそれぞれ唯一無二の存在である証しとして自己を見つめ、言葉では説明し切れぬ暗部に潜む情熱や、生の力まで読者に示そうとするロレンス。その恋愛観、人間観に接すると、現代小説ではまず味わえなくなった知的昂奮を覚えずにはいられない。