きのう、Lawrence Durrell の "Balthazar"(1958)を読了。周知のとおり、"Justine"(1957)に始まる Alexandria Quartet の第二巻である。さっそくレビューを書いておこう。
[☆☆☆☆★] 第一巻の原稿を読んだ友人バルタザールの注釈をもとに前作の男女関係を「私」が再検証。現実と虚構、実在の人物と小説のキャラクターという対比が読みとれるメタフィクションである。そのねらいはやはり「愛の探求」。ジュスティーヌをめぐる四角関係が五角に発展、さらに周辺の人物も参入するなか、愛の真実とはなにかという古典的な問いが発せられる。見る者によって事実の意味が異なるのは見解の相違か、事実そのものの多義性か。異なる真実は相補的なものか、互いに否定しあうものか。「私」は錯綜する愛の謎に身も心もからめとられていく。完全な相思相愛は存在しない。心の空白を愛で満たそうとする試みは完成したとたん幻想と化し、愛はひとを結びつけ切り離してしまう。自己実現、自己探索もつねに挫折。ジュスティーヌは幸福へとつながる「魂の内的現実」のもつ意味と価値を否定する虚無の深淵につつまれる。おりしも時代は不測の事態を予感させる第二次大戦前夜。舞台は「聖と俗が共存」し、「純愛と猥褻という不可能な組みあわせ」が可能になる多民族の街アレクサンドリア。本書における愛の現実とは、まさに時代の空気と街の実情を象徴するものであり、愛が上のように多面体、多角形ということはすなわち、人間が愛にかぎらず真実の一面、一角しか認識しえないということだ。こうした認識にいたるプロセスが、書中に登場する作家の言を借りれば、「人間の情熱を正直に描くことで人間の諸価値を検証するという絶望的」な試みなのである。ジュスティーヌが前回ほど強烈な存在ではなく、山場も減っているが、第一巻の補完もしくは異稿という本書の性格を考えれば大きな減点材料ではない。次巻でさらにどんな愛の諸相が示されるのか楽しみな傑作である。