「完全に近い善人」ムイシュキンが単なるお人好しでないことは明らかだ。彼はたしかに idiot と呼ばれるのだが、実際は鋭い知性の持ち主であり、相手の魂胆や下心をすばやく見抜く。しかしそれを咎めることなく、あとで後悔した人間をすぐに赦す。それゆえムイシュキンの周囲には、「そのたぐいまれなる純真な心に感動しない者はいない」。
つまりドストエフスキーは、一方で善人の美しさをしっかり描いている。善人が純朴であるがゆえに愚者らしく見える点も頭にいれつつ、その見事さを貶めるようなことだけは絶対にしなかった。
だがまた一方、それは決して手放しの賞賛ではない。ムイシュキンが発狂するからだ。その直接的な原因は嫉妬に燃えるロゴージンの奸計によるものだが、ロゴージンはムイシュキンが善人であることを承知している。けれども、それはおのれの欲望の歯止めにはならなかった。このような設定を考えると、ムイシュキンの発狂を通じてドストエフスキーはやはり、「この世では善が実現しがたい」ことを言いたかったのではないだろうか。
善の見事さとこの世における限界を同時に描いた悲喜劇。それが『白痴』なのかもしれない。
…「結び」のわりには、何だか締まらない結論だ。とうの昔に誰かが指摘しているような気がする。ともあれ、「善の悲劇、美の不幸」というテーマは根本問題であり、決して大ざっぱに扱うべきものではない。ほかに愉快な要素がたくさんある本なのだから、素人レビュアーのぼくはそちらについて書けばよかった。