ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Klingsor's Last Summer" 雑感 (6)

 巻頭の短編 "A Child's Heart" に関連して、もうひとつだけ「バリザンボーを浴びそうな発言」をしておこう。
 今まで述べてきたことをまとめると、主人公の11歳の少年はまず、成長とともに自分の心の中に潜む悪を自覚している。'....how could I have become what I now was, so utterly different, so wicked....? ....everything was poisoned, shattered.' 次に本編の事件を通じて、「善から悪が生まれる」という苦い真実をおぼろげながら理解・認識するようになる。つまり、少年にとって大人になるというのは、悪を知ること、それも自分の心中の悪を知ることであり、そして善悪の悲劇について学ぶということなのだ。「善から悪が生まれる」。これはまさしく悲劇としか言いようがない。
 ぼく自身、自分の小学校時代からのことを何十倍速かでふりかえると、大人になるというのは確かにそういうことだな、と思う。昨日ふれた大学時代の〈リンチ殺人事件〉をきっかけに、まだまだ認識は甘いが、「善悪の悲劇」についても多少は学んできたつもりでいる。
 さて、そういう目で昨今の安保関連法案がらみの〈狂騒劇〉をながめているうちに、ふと思い出したのが、「日本人は12歳の少年だ」と述べた例のマッカーサーの言葉である。じつはこれ、差別発言ではなかったという説もあるようだが、元の文脈はさておき、あえてこの言葉を一人歩きさせてみよう。
 あの〈狂騒劇〉の立役者たちは、なるほど「鉄パイプやゲバ棒こそふるっていないけれど」、ぼくの見るところ、「自分の正義しか頭になく、相手の正義を―少なくとも言葉の(時には本物の?)―暴力で否定しようとする〈善人〉たち」である。そのことにもし彼ら自身気づいていないのだとしたら、彼らは12歳どころか、"A Child's Heart" の11歳の少年にも及ばない子供たちということになりはしないだろうか。その彼らがもし日本人の大半を占めるのなら、終戦直後以来、日本人は果たして大人になる努力をしてきたのだろうか。……ああ、さぞ「バリザンボーを浴び」ることでしょうな。
(写真は、宇和島市内から眺めた南予アルプス。中央は鬼ヶ城山)。