ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(6)

 だが一方、「アダム以降の全人類の怒りと憎しみの総計」を白鯨にぶつけたエイハブが「偏執狂のとりこ」となり、「凶暴な狂人ぶりを発揮し」たこともまた事実である。これは、彼が同時に偉大な人間であったことと矛盾しない。白鯨を「根元的な悪の存在」と見なし、「神たらんとした」エイハブは、偉大な高みへと登りつめる一方、その猛烈な理想主義の衝動によって「偏執狂」と化した。彼は単なる狂人ではないが、「正真正銘の狂気」に駆られていたことも間違いない。
 ぼくは昨日、「エイハブをヒトラースターリンと同列に扱うことはできない」と書いたが、それはひとえにエイハブが「理想主義の栄光と悲惨を一身に担う存在」だったからだ。彼の行動を小説から現実の世界に置き換えれば、政治的には凄まじい恐怖政治、全体主義を意味し、その行動がもたらしたものは、恐ろしい流血の惨、大虐殺に他ならない。メルヴィルは理想主義の剣を折らなかったが、その危険性も十二分に訴えていたのだ。
 "Moby-Dick" には、「神たらんとした」エイハブが偏執狂どころか、悪魔と化したかに見える瞬間がある。白鯨を最後に追跡する前、第113章「ふいご」において、エイハブは白鯨を仕留める銛に焼きを入れながらこう叫ぶ。「我イマ汝ニ洗礼ヲ施サン、神ノ名ニ非ズシテ、悪魔ノ名ニオイテ!」
 これは、小説を離れて現実に戻れば、人が「○○主義を標榜して正義の使徒たらんとした結果、恐ろしい独裁者とな」る瞬間ではないだろうか。昨日も書いたように、パスカルは、「人間は…天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう」と述べた。同様のことを『悪霊』のシガリョフも宣言している。「無限の自由から出発して、私が到達したのは無限の専制主義」であると。
 それにしても、「神たらんとした」エイハブが悪魔的な人物と化し、「天使」たらんとした人間が「獣」になり、「無限の自由」という崇高な理想から「無限の専制主義」が生まれるのはなぜなのだろうか。じつは、その点にこそ「闇の力」が働いているようにぼくには思えるのだ。(続く)