ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(7)

 「神たらんとした」エイハブが悪魔的な人物と化した理由について考えるには、ミルトン・スターンの指摘が参考になる。スターンによれば、メルヴィルの作品の主要な人物はいずれも「絶対の追求者」であり、その行動にはこんな「一定の公式」が認められるという。
 理想主義的ヴィジョンは個人的ヴィジョンに帰着し、個人的ヴィジョンは自己と共同体との分離に帰着する。この分離はモノマニアに帰着し、モノマニアは、自己の命じるままにヴィジョンを死に物狂いで達成しようとする不毛な探求に帰着する。この探求は、自己の抹殺と殺人に帰着する。
 分かりやすく言えば、人が自分の理想を追求すればするほど他人の存在を忘れ、その理想しか見えなくなり、あげくの果てに自分も他人も破滅に導いてしまう、ということだ。ここで他の作品にふれる余裕はないが、この「公式」がエイハブの行動にぴったり当てはまることは間違いない。
 そしてこの「公式」は、エイハブだけでなく、「天使」たらんとしたすべての人間が「獣」になってしまう過程を簡潔に説明している。ベルジャーエフも言う。「革命のとき人々がふりかざすヒューマニズム」の愛、「抽象的観念や抽象的善への愛」は、「残酷なまでに狂信的で非人間的な愛」であり、「生きた人間を犠牲にしてしまう」と。
 観念による殺人を描いた文学作品としては、まっ先にドストエフスキーの長編が思いうかぶ。人物で言えば、ラスコーリニコフ、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー、イワン・カラマーゾフたち。彼らはいずれも自分の理想を愛するあまり、「生きた人間を犠牲にしてしまう」。そしてエイハブもまた、「理想主義的ヴィジョン」を愛しすぎた結果、乗組員ともども海の藻屑と消えてしまう。
 この観念から殺人が生まれる過程は、いったい何を意味するのだろう。人間には殺人を犯してまでも観念を追求する衝動があるということなのか、それとも、観念そのものに人間を殺人へと駆りたてる魔力があるのか。どちらとも言えるような気がする。いずれにしろ、これがぼくの考えている「闇の力」の正体である。(続く)