ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(17)

 戦いは終わった。エイハブは、イシュメールを除くピークォド号の乗組員もろとも海の藻屑と消えてしまう。だが、白鯨を根元的な悪の存在と見なすエイハブの死は、理想主義の敗北を意味しない。何度も引用するように、エイハブは「おれの至上の偉大さは、おれの至上の悲しみにある」と叫びながら死んでいくからだ。けれども一方、彼が「乗組員を死に導いた行為は現実の世界では虐殺に等しい」。それゆえ、その死は理想主義の栄光と悲惨を同時に象徴するものだったのである。
 戦いのあとには「不思議な沈黙」が流れている。「どこからともなく飛来した小さな海鳥たちが、まだ口をひらく深淵のうえをけたたましく鳴きながら飛んでいた。その深淵の斜面のけわしい縁に不機嫌そうな白波がひとつ打ちあたると、たちまちすべてが崩壊して、大いなる海の経帷子は、五千年まえと変わりなくうねりつづけた」という最後の一節には、その「沈黙」が如実に示されている。
 この沈黙は何を意味するのだろうか。メルヴィルの研究者としても有名だった寺田建比古の著書のタイトルにあるように、それは「神の沈黙」なのか。人間が悪を根絶しようと戦ったあげく、おびただしい血が流れる。何ゆえ神は悪の存在を、流血の惨を黙認するのか。いやそもそも、神は存在するのだろうか。
 さまざまな意味を読みとることが可能だと思うが、ひとつ確実に言えるのは、この沈黙が、たとえば戦争の終結が宣言された直後、廃墟の街や強制収容所に流れるであろう沈黙と似通っていることだ。激しい戦闘が、虐殺がとうとう終了したことを知ったときの呆然たる思い。それは瞬間的な心の空白にほかならない。
 そのように考えると、ピークォド号が沈んだあとに訪れる沈黙は、人間が理想主義、もしくは理想主義の衝動という「闇の力」にとらえられ、さんざん血を流したあげく、戦いの終了によって突然、「闇の力」から解放されたときの虚脱感の象徴ではないだろうか。戦いに意味はあったのか。悪は滅んだのか。それは分からない。今はただ、自分がここまで突っ走り、これほど凄まじい形で何もかも終わったことに呆然としているだけ…。(続く)