ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(18)

 前回ぼくは、ピークォド号が沈んだあとに訪れる「不思議な沈黙」は、戦いの終了によって突然、「闇の力」から解放されたときの虚脱感の象徴だと書いたが、じつは、あの沈黙にはそういう個人的な感覚を超えた意味も含まれていると思う。それを裏づけるのが「大いなる海の経帷子は、五千年まえと変わりなくうねりつづけた」という結びの言葉だ。
 たしかに戦いは終わった。だが、エイハブが死んだからといって、人間の心に潜む理想主義の衝動まで消え去ったわけではない。理想が消滅したわけではない。何度も言うが、メルヴィルは、理想主義の剣そのものを折るような書き方はしなかった。
 一方、白鯨はどうか。「銛が投じられ、銛を打たれた鯨は急発進し」、やがて海中に姿を消したという記述こそあるが、エイハブ同様、鯨まで海の藻屑となったかどうかは定かではない。息絶えたとも、生き延びたも書かれていない。つまりエイハブの立場からすれば、「根元的な悪」が消滅したかどうかは、つまびらかにされていないのである。
 理想主義は滅びず、理想は消えず、はたまた、悪が滅んだとも言えず、そこには「五千年まえと変わりなく」海がうねっているだけ。それが昔から人間の営みだったのだ。おそらくメルヴィルは、そう言いたかったのではないか。
 人は理想主義の衝動に駆られ、おびただしい血を流したあげく、いったん戦いをやめ、しばし平和が訪れる。しかしやがてまた、新たな悪、新たな敵を発見して性懲りもなく、「いつか来た道」をたどりはじめる。それが五千年前と変わらぬ人間の永遠の姿なのだ。そういう現実から人間は逃れるすべもない。
 そう考えると、「不思議な沈黙」とは結局、人間の力ではどうにもならぬ永遠の真理を人間が知り、その真理の重みに言葉を失ったときの沈黙なのではないだろうか。(続く)