ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(8)

 人が自分の理想を追求すればするほど他人の存在を忘れ、その理想しか見えなくなり、あげくの果てに自分も他人も破滅に導いてしまう。ぼくは昨日、ミルトン・スターンが指摘した「公式」をこのように要約したが、この「理想主義的ヴィジョン」から「自己の抹殺と殺人」が生まれる過程には、決定的な瞬間があると思う。それは、自分の「理想しか見えなくな」る瞬間だ。"Moby-Dick" の第96章「製油かまど」で、イシュメールはこんなことを述べている。
 おお、人間よ、あまり長く火を見つめることなかれ!…なべてを不気味にいろどる赤い火を信じることなかれ!…火にこころをうばわれてはならない。それは汝を反転せしめ、死にいたらしむる。…悲しみであるところの叡智はあるが、狂気であるところの悲しみもあるのだ。(八木敏雄訳)
 これをエイハブに当てはめれば、彼は理想主義の火をあまりに長く見つめすぎたのだ。エイハブは、白鯨という目の前に立ちはだかる壁の「背後には何もないと思うこともある」と洩らし、自分の「動機と目的が狂っている」と「こころの底でうすうす感じていた」という。だが、そういう逡巡や疑念は結局、あとかたもなく消えさってしまう。
 もちろん、エイハブが狂気へと駆りたてられる直接的なきっかけとしては、白鯨に片足を食いちぎられるという一件がある。だが、"Moby Dick" が単なる復讐劇ではないことは明らかだ。何しろエイハブは、白鯨を「根元的な悪の存在」と見なし、悪の根絶という「理想主義的ヴィジョン」に取り憑かれていたのだ。
 だが、何であれ理想とは、「あまりに長く見つめすぎた」くなるほど美しいものではないのか。でなければ、理想にどれほどの価値があろう。人間の手には届きそうもないほどの高みにあってこそ、理想は初めて理想たりえ、そして人を惹きつける。
 とりわけ、キリスト教プラトニズムという「絶対の洗礼」を受けた西欧の人間は、そのように考えてきたフシがある。たとえばハンナ・アレントが言うような「絶対善」は、「ヨーロッパ的伝統の枠組みの中で」、昔から彼らを魅了しつづけてきたのだ。
 そういう魅力的な美しい理想の火が人間をたきつけたあげく、「汝を反転せしめ、死にいたらしむる」。今世紀に入っても、西欧に限らず、正義の名のもとに敵対する人々を抹殺した例はあとを絶たない。そのすべてが狂気の沙汰とは言わないが、多くの場合、理想の火がその「理想しか見えなく」させていることも事実だろう。ぼくにはやはり、絶対的な理想であればあるほど、その追求者に自分を見失わさせる恐ろしい「闇の力」があるように思えるのだ。(続く)