ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(9)

 いやはや、とんでもない脱線をしてしまったものだ。2週間前に観た『愛の嵐』の感想で、「男と女が結びつくとき、そこには理性では計り知れない闇の力が働くことがある」と書いたのがきっかけで、すっかり「闇の力」のとりこになってしまった。
 あの映画には、ダーク・ボガード演じるナチス将校が、ユダヤ人の美少女、シャーロット・ランプリングを8ミリカメラで執拗に追い回すシーンがある。あれがまあ、「倒錯的な官能の世界」の始まりで、以後、美少女の魅力に狂ってしまった男の異常ぶりがよく示されていた。
 それからさらに、「理性では計り知れない闇の力」が働いている点で、将校と娘のからみは、「文学作品で言えば、『嵐が丘』におけるヒースクリフとキャサリンの関係を思わせる」と書いたわけだが、ヒースクリフの猛烈な「異常ぶり」は文学や映画のファンにはよく知られている。何しろ、愛する女の墓をあばき、その死体を掘り出してしまうのだから。
 ぼくは恥ずかしながら、『嵐が丘』は英語では序盤しか読んだことがないので詳細は省くが、とにかく、人に常軌を逸した行動を取らせるものは世の中にたくさんある。酒、金、女…どれもこれも、大ざっぱに言えば「闇の力」を秘めたものかもしれない。
 で、その異常行動が本人の破滅につながるだけなら、それこそ自己責任で済むのだが、エイハブを惹きつけた「理想主義的ヴィジョン」のように、絶対的な理想や絶対的な正義となると、それが自己の破滅のみならず、多くの人間の虐殺へとつながるだけに、その「闇の力」は甚大だ。「おお、人間よ、あまり長く火を見つめることなかれ!」とは、まさに「闇の力」の危険性を象徴する言葉だったのである。
 だが、これは逆に言えば、人間には「火を見つめる」衝動があるということでもある。じつはそれこそが「闇の力」なのかもしれない。「人間からどんなものでも抹消することができようが、絶対への欲求だけは消すことができない」とE・M・シオランは言い、「人間には絶対的な正義に対する欲求がひそんでいる」とベルジャーエフも言う。
 少なくとも、文化的に「絶対の洗礼」を受けた西欧人は、そういう「絶対への欲求」をしばしば発揮してきた。そしてその「欲求」がいかに凄まじく、人間には制御不可能の「闇の力」であったかを示した作品が "Moby-Dick" なのである。(続く)